年を生きたんだよ。たしかにそうだよ。今さら何も、云うことないじゃないか。」
涙を浮べて云うような久慈の切なげな言葉を聞いては矢代もも早や意見は出なかった。アンリエットの薔薇の匂いが夜の匂いのようにゆらめくのを感じながら、これが二百年後の日本にも匂う匂いであろうかと、心は黄泉《よみ》に漂うごとくうつらとするのだった。
矢代と久慈がブールジエ飛行場まで来たときは、ロンドンから千鶴子の来る時間に間もなかった。晴れ渡った芝生の広場に建っているホールの待合室で、パリを中心に光線のように放射している無数の航空路の地図を眺め二人は立っていた。ときどき夕暮から夜へかけて、突然、日本へ帰りたい郷愁に襲われるこのごろの矢代は、一途にここからシンガポールまで飛びたいと思った。
「ロンドンへもそのうち、一度行こうじゃないか。ね、君。」
と久慈は久慈で何かの夢想にかられているらしい。
「ロンドンも良いが、それよりそろそろ僕は日本へ帰りたくなったね。」
「君も困り出したのか。外国へ来て、初め困らぬ奴は、必ずそ奴は悪者だというから、も少し君も辛抱するさ。」
「そんなら君は悪者の傾向があるぞ。」
「いや、僕
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