りの美しさに今はもう云い争う元気もなくなった。
「矢代さんはどこにいらっしゃるの。」
 まだ一度も婦人と腕を組んで歩いたことのない矢代は、アンリエットから力を込めて腕を組まれても片身が吊り上っているように感じられ、ともすれば足が乱れようとしかかった。
「ラスパイユ、三〇三です。」
「三〇三。」
 同じ番地に一つより家のないパリでは、番地を云えばすぐ建物が浮んで来るらしく、アンリエットも、「ああ、あそこ。」と頷いて、
「じゃ、明日行ってよ。夕方の六時に行くわ。」と慰める風に云った。
「どうぞ。」
 と矢代は云ったものの久慈の顔色も少しは考えねばならなかった。
「君、いいのかい?」
「まア、いいや、僕はここでならどんな目に逢おうと満足だ。ここのこの美しさを見ろウ。」
 渋い鉱石の中に生えているかと見える幹と幹との間に瓦斯灯の光りが淡く流れ、こつこつ三人の靴音が響き返って聞えて来る。矢代はふとショパンのプレリュウドはここそのままの光景だと思った。しかも、その中を、腕を組まれて歩いている自分であった。
「日本にこれだけ美しい通りの出来るまでには、まだ二百年はかかるよ。僕らはここを見て日本の二百
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