鶴子さん、あなたお疲れになったでしょう。」
 と矢代は云った。
「いいえ。」

 眼を上げた千鶴子の顔に、走り停った強い光彩がぼッと赧らみを加えて来た。
「僕はさっきも塩野君に云ったのですが、用心されないと病気をしますよ。あなた大丈夫でしたか。」
「ええ、でも、もういいんですけど、しばらくは何んだか変に疲れましたわ。」
 物いうのさえ何んとなく恐わそうだった千鶴子の顔から、拡がりすぎてゆく漣に似た速さでかき消えた愁いがあった。
「あのときはとにかく面白かったですね。」
 と矢代は無意味に云ったが、あのときとはいつだったか考えもしなかった。実際彼は、もう面白いのはあのときで良いと思うのだった。まだこれ以上の面白さを二人でつづけようなどという慾深さは、ただ贅沢なことかもしれぬと思うあきらめに変りはなかった。
「あたしこんなに幸福でいいのかしら。こんな幸福は、いつまでもつづくものかしら。」
 とチロルの山の上で洩した千鶴子の吐息も、今にして意味深く矢代には思われて来るのだった。「おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな。」こんな芭蕉の句も彼はふと思い出し、心にくいまで巧みな旅愁の表現力だと腹立ちさえ
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