ど、矢代には見覚えのものが多くなった。どれも暫く見ぬ間にひどく衰えた姿になっていた。それでも彼は窓ガラスに額をあてて、迎えてくれる風物を見逃すまいと努力した。繰り顕われては走り去るそれら一瞬の光景が、どれも鄙びた羞しさで、顔を匿して逃げ走る生き物のように見えた。溝を盛り起して道路の上まで這い繁っている夏草の一叢の所で、矢代は車を降りた。自宅の門がもうすぐそこだった。
 彼は門の引手をひき開ける手具合も、暫く不在のうち、度を忘れてつい大きな音を立てた。
 まだ母はひとり起きていた。彼は奥座敷で帰った挨拶を母にし直してから、初めて襖や天井を見廻した。廊下の方から幽かに肥料の漂って来るにおいがした。ふと彼は永く忘れていた子供のころのまま事を思い出した。柱の手擦れた汚れや、砂壁の爪の痕跡など、それぞれ自分の身を包んでいた殻のように感じられ、加わる疲れのまま見降ろしている畳目が、無きに等しい軽やかなもの思いに似て見えた。彼は母の出してくれた茶をただ今はがぶがぶ飲むばかりだった。
「へんなものだなア。お茶がうまいというのは。もう一ぱいくれませんか。」
 矢代は母に、こう云いながらも、そんなことを云
前へ 次へ
全1170ページ中600ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング