それは日本金ですから記入の必要がないと思って、大切に大切に仕舞っといたものです。どうぞ返して下さい。どうぞ、どうぞ。」
外交官は手をだんだん紙幣の方へ延ばし優しい声で歎願した。
「駄目です。」
「どうぞ、どうぞ。」とドイツ人はまた繰り返して迫った。
「東京滞在は幾日間ですか。」と検査官が訊ねた。
「二週間です。」
「じゃ、帰りにここを通られるとき、お返ししましよう。」
外交官の歎願の様子が次第に嶮しい表情に変って黙ってしまった。すると、突然胸をぐっと反らしたと思うと、固めた拳で卓をどんと叩いた。
「じゃ、もう要らない。覚えているが良い。このお礼は必ずして見せる。」
ねばりのある高い声で畳み込むように云い捨てているドイツ人の言葉を、若い検査官はもう相手にしていない様子だった。ソビエットとドイツの国交の険悪になっているときである。規則を守った検査官は正しかったとはいえ、見せずに済ませば済んだ金を正直に示して奪われたドイツ人の怒りもまた正しかった。時と場合の心情の酌量不足が及ぼした争いは、もうこのときから、個人のことではなくなっていくにちがいなかった。
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