「雨まだかしら。」
 と云って窓のない廊下の外を覗う様子を一寸しかけ、また矢代を見た。矢代はボックスが停ると千鶴子の肩を押した。
「君もうここでいいですよ。じゃ、また。」
 闇の中に光っている大きな千鶴子の眼を見ながら、矢代は笑顔を軽く作って下へ沈んでいった。彼は奇蹟に似たものが体内で激しく起っているような、何か気違いじみた素晴しく軽い飄然とした気持ちだった。
 ホテルの外へ出てからも彼はやみかかった小雨の中をルクサンブールの方へ歩いた。五階の千鶴子の窓の灯がもう消えたかと思って仰ぐと、窓はもう前から開いていて千鶴子がそこから下の通りを覗いていた。矢代は早く眠すみなさいという意味の手枕の真似をしてみたが、黒い影のように見える千鶴子の姿が、
「どういうこと、それ?」
 と訝るらしい首の曲げ方で答えた。その千鶴子の様子は、なまめかしい悩みを顕している風にも矢代には見え、一瞬強く足の立ち竦む思いに打たれるのだったが、それもどういう作用で切りぬけているものか彼も分らぬまま、また歩いて街角を曲った。
 初めて千鶴子の影が見えなくなったとき、矢代は首すじから背中の半面へかけひどい疲れで鈍痛を覚
前へ 次へ
全1170ページ中529ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング