証を貰い荷物の検査もすまさねばならぬ。矢代は出て行った香取の行方を見送りつつ、「じゃ、さようなら。」と胸の中で云っているときだった。
真紀子が良人らしい中年の紳士を連れて来て矢代に云った。
「これ宅でございますの。」
「そうですが、いろいろ船中ではお世話になりました。」
「いや私の方こそ御迷惑をおかけしまして有り難うございました。」
肩幅のある早坂氏が微笑を含み、鄭重な挨拶の横からまた真紀子が嬉しそうに云った。
「もしウィーンの方へでもいらっしゃることがございましたら、どうぞ、是非いらして下さいましな。」
「ありがとうございます。そのうちに、一度あちらへも廻りたいと思いますから、そのときにはお願いします。」
どことなく一抹の冷たい表情で早坂氏は礼をすると、妻の荷物の方へ去っていった。後のサロンではパリへ行く船客たちが一団となって、今夜もう一度船へ帰って泊めて貰い、明朝早く揃ってパリへ行こうという相談が一致しかけていた。このような時でも沖氏はいつもの剽軽な調子で、
「そうそう、そうしなさい。今夜はゆっくりマルセーユで遊びましよう。久慈さん、私はあなたを愛しますというのは、フランス語
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