来た。わけても赤十字の動きが鮮やかに眼につくようになってからは、山野から出発していく馬の嘶きが次第に高くなって来た。
 陣太鼓の遠くから鳴りとどろいて来るようなこんな暑さに拘らず、それでも、久しく平和に馴れた人人の表情には、まだ調子の揃わぬものがあるようだった。戦争というには厳しさが足りず、事変というには底鳴り異様なうちに、今度は上海の周囲に火が飛んだ。久慈が印度洋廻りで東京へ帰って来たのは、丁度こういうときであった。彼は東京の知人たち誰にも到着を報ぜず瓢然と戻って来たのである。
 矢代が久慈の帰ったことを聞いたのは塩野からで、塩野は大石から聞いたという。誰にも報ぜず、人に会うことをも避けている久慈のその気持ちも、矢代は察することが出来たが、介意わず彼を引き出すようにしなければ、久慈に限りそのまま老い崩れてしまいそうな懸念もあって、すぐ矢代は彼に速達を出した。多摩川の傍だと聞いていた彼の家へ直接出かけて行っても良いとはいえ、それにはこちらの想像する以上に困ったこともあるかも知れず、先ず今は速達だけにしたのである。それに対してしばらく返事のなかったとき、ある日矢代の留守に久慈が訪ねて来た
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