婚の躊躇を突くような千鶴子の視線に、矢代は返答を鈍らせながらも、無造作に今までの姓を書き代える婦人の諦めの良さに感服して、暫く忽然と生じた新しいその名の感じをまた眺めた。
「今ごろこんな名にして、君いいの。」
「でも、式を待ったりしていては、きりがないと思いましたの。いつのことだか分らないんですもの。それに、あなたお郷里へお帰りになって、もしかしたら、また急に妙なこと仰言るんじゃないかと思ったりして、――そうじゃありません。」
疑う様子を露わには出さずとも、積極的に押し出て来た千鶴子の強さには、何ごとか自分自身の内部の変化や覚悟をも彼に知らせたいようだった。矢代は千鶴子のその変化を感じたくて正面から瞳の中を見た。千鶴子は一寸視線を伏せたがすぐまた臆する風もなく彼を見返した。
「君の困っていることも分るんだが、――しかし、これはたしかに僕にはありがたいですよ。これで無事だ。」
こう云っているとき、急に矢代は喜びよりもむしろ、ある不思議な悲しさを瞬間感じてペンをそこに投げ出した。何が悲しいのかそれは自分にもよく分らぬものだったが、千鶴子が自分の過去を自分の手で断ち切った切なさがうつり、
前へ
次へ
全1170ページ中1124ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング