ったと思った。自分にとって故郷はもう東京以外にはなく、そこへ向ってこれで刻刻近づき得られている自分だと思った。日暮の冷たさを含んだ風が山蔭から頬をかすめて来た。苗代の整った峡間の障子が、土臭を吸いとった高雅な風貌に見え、彼はこのときほど障子の白さに心牽かれたことはまだなかった。
「秋十年却つて江戸をさす故郷」
江戸をたって、故郷の伊賀へ帰ろうとしたときに深川で作ったと云われる芭蕉のこんな句を、ふと矢代は思い出したりした。十年も江戸にいると、芭蕉の眼にも逆に江戸が故郷に見えて来たのであろう。と、そう思うと、矢代は異国にいたときに、これでこの地に棲みつけば、そこを故郷と思う人もさぞ多くなることだろうと考えたことも、今また不意に泛んで来たりした。しかし、家を一歩外に出たもので、胸奥に絶えず描きもとめているふるさと、今身を置く郷との間に心を漂わせぬものは、恐らく誰一人もいなかったことだろう。してみれば、その者にとって衣食住は仮の世界、さまよう自分の旅ごころこそ実の世界、と念うもの佗びた心情もあの草の中の障子の白さの中には棲んでしまっていると思った。そのほの白さは、胸奥ふかく沈めた旅の愁いの灯
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