そして、ひどく驚愕した頓狂な大声で、
「へえ、ここがそうかね、これがね。」
と云って竹の杖でとんと地を打った。
「わしのここへ来たのは三十年前だったが、何んと変ったことだ。あんたら、そのときまだ生れてなかったぞ。」
老人は今度は娘の顔を覗いて放そうとしなかった。そのときお前はどこにいたと問い質す風な鋭い老人の視線に、答えようもなく娘はただ、羞しそうに顔を赧らめているだけだった。これで三十年の星霜の変化を真面目に表情に顕せば、こうしてこちらのぼんやり見ている景色にも、あの老人の、只ごとではすまされぬ狂人めいた、昂ぶる様にもなるのだろうと矢代は思った。実際、三十年の年月の経過の後に、自分も再び外国へ行くようなことでもあれば、定めし思いの外の変化に眼をみ張ることと想像された。そして、そのころはもう自分に子供も生れているだろうと思うと、その子に対い、いまお前はどこにいる、と老人のように問い詰めたくもなって、午後から会う筈の千鶴子との会合も意味ふかく、おろそかには出来ぬ日常の二人の行いだと思われて来るのだった。
午後から約束の時間に矢代は東野の宅へ出かけた。千鶴子の手紙では別別に行く客の先方に与える迷惑を考え、その近くにある松濤の公園で待ち合せてからにしたいとの事だったので、白い標示札を見つけて彼は中に這入った。公園は大名屋敷の名残りの小さな庭で、擂鉢型に傾きよった樹の底に、細長い人工を加えぬ沼があり、その周囲に雑草の乱れた小径が見えて、市中の公園には稀な都びた趣きの、人を待つにふさわしい目立たぬ場所だった。
矢代は沼べりの木の長椅子に腰を降ろした。人が誰も見えず頭の上から芽を噴いた楓の枝が垂れていた。沼の水面いっぱいに密集した睡蓮の葉が浮いていて、中央に蘆の葉に埋った島が二つ見えている。矢代はその沼を見ているうち、どこかで見覚えのある親しみを感じ、ふと忘れていたパリのモネー館の楕円形の壁画を思い出した。それは周囲の壁面の全部に、沼に浮んだ睡蓮の画ばかり巻き連った部屋だったが、そのときは、日本のどこかで見た風景だと思っていたのに、それが反対に、パリのどこかで見たことのある景色だと思っている自分だった。あのときは千鶴子と二人で、食事も出来ぬ空腹をかかえ、苛立たしく睡蓮の部屋へ飛び込んだのだったが――
「ははア、あの部屋そっくりの実物がこんな所にあるなんて――」
矢代はまったくおかしくなってこう呟いた。それも、そのときの千鶴子がすぐまたここへも来るのだと思うと、日本を好きで夢にも見たと云われているモネーの代表作の著想も、あるいは、今こうして見ているこの沼だと思っても、別に自分にとって不都合なことではないと、真面目に彼は考え込むのだった。実際もしモネーが云われるごとく、日本の睡蓮をいつも夢見たとするなら、今は亡いモネーの夢を身に灼きつけ、彼に代ってここまで秘かに運んで来たのかもしれぬ、とも思えたりした。
間もなく千鶴子は裏門からいつもと違い和服姿で降りて来た。紫色のぱっちりした矢絣の膝のよく伸びた姿勢で、柘植の木の横から段を降りるのが沼の水面に映っていた。莟のまだ固い紫陽花の叢に指さきを触れ、小径を廻ってからよって来ると木椅子へ並んで腰かけた。
「このごろ外出はらくになりましたの。」千鶴子は額を一寸揉み彼を横眼で眺めた。いつの問にかひどく老成した風な、ゆったりとした微笑に矢代は気附き、千鶴子も長らくの気疲れがようやくほぐれて来たものと察せられた。彼は和服のよく似合うのを賞め、少し遅れて手紙の礼を述べてから、
「本当ですかね、お母さんのことなどあんなに都合よくいきましたか。」と訊ねてみた。
「あたしのお母さん、そういうところのある人なの。あなたにもお気の毒じゃないかしらと思うほどなの。それにおかしいんですのよ、あなたの胃の悪いことばかし気にして、じっと考え込んだりしているかと思うと、その次にはまた、矢代さん矢代さんって、云うんですもの。あたし、ひとりでいるときお腹の皮がよじれそうなことがありましてよ。でも、良かったわ。」
千鶴子は終りだけそう小さく云って、沼の水面に眼を落とした。浮き上った小魚の空気を吸う口もとを中心に波紋が拡がり、それが絶えず続いて雨の降り込むような音を立てていた。
「しかし、そんなに信用されては、また困るなア。あなたも今からそう云っといて下さいよ。僕は事実、あなたの手柄になるような人物じゃないのだからな。」
「先日も面白かったわ。お母さんがあんまりあなたのことを云うものだから、由吉兄さんあの調子で、あなたのことを、どうもちと真面目すぎて、気苦労だねと云ったの。そしたらお母さん怒って、それはあなたが不真面目だからですよって、云い返すんですのよ。」
「いや、そこが僕の不幸なところでね、いつも僕は、人から買いかぶられ
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