ないか。」
 とそう云って、初めて彼は書類の封を妹の前で切っていった。
 予感のごとく中に千鶴子からのも混っていた。明日東野氏の家へ行くついでがあるので良ければ矢代にも来て貰いたいという意味であったが、用事はそれだけのことでも、千鶴子の母が前より一層彼にまた会いたいと云って困るとも書いてあって、そんなに急に変って来る婦人というものについても、ただ喜ぶばかりのことではすまされず、多少は眉の顰む不安も覚えた。
 幸子は矢代の穏やかでない様子を感じたものと見えて、後は何も云わずお茶を持って上って来るとすぐ下へ降りて近づいて来なかった。
 その夜彼は遅くまでひとり起きていた。千鶴子に手紙を書きかけてみたがそれも気乗りせず中途でやめ、写真帳の中から研究用に蒐集してある写真と地図とを覗いた。それらの写真は、かねて社長の貞吉から調査の命を受けていたものでもあり、かつまた、矢代自身の勉強にも欠くべからざる重要な種類の、わが国の上古のもっとも純粋健全な古建築を、漸次に装飾してゆく仏教様式の変化を示した神社の写真で、地図はそれらの山奥の存在地を示したものばかりだった。写真に顕れた神社の姿に、ほんの些細な様式が伺われるだけでも、そこには必ず襲って来ていた新時代がそれぞれにあった。そして、それに伴う闘争に継ぐ闘争の果の現実が、争われず今の自分の中にも確実に影響を与えているものであった。
 矢代はそれらの写真を見ているうちに、今の自分の生活に暗示となる精神を自然に拾い上げてゆくのだった。そして、写真の含む問題とは別して、新しい自分の時代の悩みとは何んであろうかと考えると、それは千鶴子のカソリックを法華の母に告げ報らせることを秘め隠そうとしていることだと思った。いずれは露れ出ることであるからは、最初に云っても良いとも思われたが、神仏混淆の権現造の建築に、さらにカソリックの尖塔を加える困難は、ただ建築様式として見た場合に於てさえ未曾有の苦心を要することであった。おそらく幾度となく兵火に焼き払われることだとしても、事実この世の日本に来ているものである以上は、工夫に工夫を重ねてこれをも日本化せしめて行く日のあることも、いつかは来るにちがいないのである。
 カソリックの建築のことは、直接彼の仕事に用はなかったが、矢代の勤めている貞吉の建築会社一つの整理部でも、建築の日本化問題は絶えず悩みの種で、また情熱の自然に対うもっともな意義ある研究点であった。飛鳥朝における支那朝鮮の建築そのままの直写時代から、奈良、平安前期に至るその消化時代をへて、宇治の平等院に示された平安後期の日本化の完成という順序は、これを短い時代の例としても、明治の初期から吹き流れて来た欧化主義の直写時代、大正の消化時代をへて、現在の日本化時代という、矢代らの呼吸している一期間に於てもそれは繰り返し行われて来た歴史である。またそれはただ単に建築の様相にとどまらず、精神の世界に於ても変りなかった。飛鳥朝から昭和の現代まで、およそどの短い時代の一断面を切り採って覗いてみても、そのうちのどれかに属した努力が払われ、それに苦しみ、産み繋いで来ているという経過の底にはまた、自然にそれをそのように導く別の力がなければならなかった。
「それだ、自分の知りたいと思うものは。」と矢代は思った。しかし、昨日今日の一日の彼の思いは、父の骨を中心にして、母、妹、叔父たちの巡り重なる中で、千鶴子を家へ引き入れる準備に費された心労だった。この千鶴子からは幾度となく逃げようと試みたり、放れる覚悟もしたりして来た筈だのに、ますます深まってゆくばかりの、意志も智慧も行いもすべて無力化させるもののあるのはこれは何んだろう。それにも拘らず一種異様な緊密した力が張りつつ、彼の心を捉えてどこかへ押し進めて行くもののあるのも、また認めねばならなかった。


 夜中に雨が降ったと見えて水溜りに桜の弁が浮いていた。矢代は洩れ陽を透かし楓の薄紅い爪を見上げた。柿の芽も縒りをほごした膨らみ柔く、彼は朝の食慾を急に覚えたが、父の死の前後まで朝夕来ていた鶯が姿を見せなくなったこのごろの朝は、庭の木の葉脈まで父の血管に似て見えた。庭をひと廻りしているうちに、ふと父の植えた白い牡丹が葩を散らせているのを見ると、突然の痛さに彼は眼を早めて、繁みを潜っていった。裏木戸を開けて、竹林の間の冷えた路を通る間も、牡丹の崩れた葩の白さがなお追いかけて来て放れなかった。陽の光りの鋭く竹の節に射しこもった縞が、泳ぐように波の変化を示していく中で、彼は煙草に火を点け、朽葉を冠った筍の高まりを探しつつ歩いた。
 矢代が竹林をぬけて広い道路へ出たとき、六十あまりの一徹そうな老人が、焚火をしている十七八の娘に道を訪ねていた。それに娘が何か答えると、老人は鰐足のままあたりを見廻した。
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