次小出しにまたそれを見せ合いながら進むまどろかしい均衡も、必要のある限り守り通し、続け通さねば、この結婚は成立おぼつかないのだと悟った。こちらだけ万事分ったような顔をするのは、折角の苦労も瓦解させる原因にもなりそうで、今は何事も知らぬ初客のように対応しているのが、この特殊な千鶴子の母との苦境を切り抜ける自然の力だと思うのだった。暫くして、千鶴子がアスパラガスやソーセージを持って客間に戻って来た。ビールなども、先ず彼女の母の前ではあまり飲まない努力もすべきだとは矢代に分っていたが、しかし、こんなに気苦労な場所では、無駄な警戒心を取り除いてくれるものこそ何よりの救いだった。
「お母さん、もうお寝みになって下さいよ。」と千鶴子は気を利かせて母に云った。
「じゃ、あたしお先に失礼させていただきまずから、どうぞ、お良ろしかったら、皆さんお泊りになっていらして下さいね。ね、あなた、そうお奨めして。」と千鶴子の母は娘に云って立ち上ると、それからまた、「矢代さん胃がお悪いんだそうですがら、ビールをあまりお奨めしちゃいけませんよ。」と附け加えた。千鶴子は出し抜けな母の注意が飲み込みかねたと見え、
「いいんですのよ、この方。」と一寸笑って云ったが、母が部屋から消えるとすぐ矢代に対い、
「あなた、あんなことお母さんに仰言ったの。胃がお悪いなんて。」と訊ねた。
「胃はやはり良くないからな僕は。ついうっかりしちゃったんですよ。ね、塩野君。今夜はもう失礼しようじゃないか。」と矢代は塩野に云って時計を見た。
「いいよ。これから帰るの遅いから、ここで泊めて貰おう。」と塩野はどういうものか強情に居直った。
「君は今夜はまた、あんまり面白がりすぎていけないね。僕は気が小さいんだからな。」
矢代がそう云っているとき、廊下の外から千鶴子の母が急にまた、「千鶴子さん、千鶴子さん。」と二度ばかり呼ぶのが聞えた。千鶴子は聞き耳を立てるように表情を締め、「はい。」と云ってすぐ部屋から軽く出ていったが、その後で塩野は矢代の方へ傾きながら声を低め、
「大丈夫だ。お祝いしよう。」と云うと、かなり興奮の強い手もとでコップをかちりと矢代のに合せた。始終椅子ぶかくかけていた佐佐も背を起して来た。そして
「手術の立会いに立たされたみたいで、疲れたよ。」とにこにこして彼もコップを矢代に合せた。
「いつの間にやら僕は、君らに荒療治をされていたんだね。以後注意するよ。」矢代はそう云いつつも、たしかに今夜の塩野の果敢な行動は、サンゼリゼのときの彼の働きとも共通したものだと思い、あまりにも明快すぎる彼の援助には、眼に見えた効果のあったそれだけにまた不安も感じられた。しかし、千鶴子の母が見えなくなってからは、争われず緊張が解け、明日からまた旅をつづけるホテル住いのような気楽さに戻るのが、いつか身にしみついたものにまでなっているのかと、それもこういうときでなくては分らぬ自分を省みて怪しまれた。
「お母さん、何んだか嬉しそうなの。ぜひ皆さんに泊っていただくようにって、そんな命令ですのよ。どうぞ。」千鶴子は戻って来ると三人を等分に見て笑った。
「そう云われると、急に何んだか寂しくなったね、帰るか、え。」と塩野は佐佐を見た。
「僕は今夜はこの絵に会いに来たんだからね、もうこれで満足だよ。」佐佐はにやにやしながら壁の自分の風景画をまた眺めた。
矢代は千鶴子の母がいろいろの意味で好意を自分に見せてくれたのも、知らぬ間に蔭で侯爵夫人や槙三などの努力に預ったことも多いと思われて、内心に感謝するのだった。しかし、こういう風に万事が自分と千鶴子に好都合になって来ていると分ると、それだけにまた、父の亡くなったことが思い出されて寂しさを感じて来た。
「僕はこのごろ何か重大なことを考えるときには、つい親父の死んだことも一緒に考えるような傾向になってね、どうも生なら生だけ考えるということは、不可能になって来たよ。親父を亡くした新米のせいかね。」
矢代はこう云いつつも、灯の下で真近に見える千鶴子の組んだ膝のぴっちりくびれた部分が、いつもと違い切なく眼に泛んで放れなかった。彼は自分のこのような視線を欲望といえば欲望だと思ったが、しかし、父の死以来、悲しさが昂じて来ると、それにつれ千鶴子の体を眼に泛べて抑える習慣もついて来ていたのである。それというのも一つは、父の亡骸を抱いたときの死の臭いを思い出すと、ほとんど衝動のように別に思い出す言葉があって、それに抵抗したくなるある作用のためだったが、――すべてのことは、やがて死ぬべきものどもが真実だと思った名目にしかすぎぬ――このギリシア人の名高い言葉は、今の自分のために特に云われたことのようにさえ思われ、その物凄い意味とは反対に、彼に人の肉体への郷愁を感じさせる強いこのごろの原因でも
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