感じ、これで千鶴子と自分との縁談が整うような日が来たら、塩野の立場も今の自分のような位置に変るのだと思った。そこに瞬時に巻き違う寂しさに似たものの淀みもたまって来るのだった。それにしても矢代は、これで自分が旅さきで千鶴子に汚点を滲ませていたなら、こうして彼女の母と会う苦しさも、今と別して心忌ましい夜となっていたにちがいないと思った。その点、まだ何事もなく旅中の友づれに変りのない現在の自分だったが、しかし、そう思うと、とやこうと気がねを組んで考える自分の憂鬱さが、急に明るみに照し出された汚点のように見えて来て、さすがに人の母たるものの貫禄は、このような微妙なところに射し出るものかと、矢代は、またもそんなところに感心されて来るのだった。
 塩野と千鶴子の母の間では、それからも暫く、由吉や塩野の小学時代の父兄会を中心にした親たちの話がつづいた。そのどの話もみな矢代の知らぬことばかりだったが、ある山科という人物の話になって来たとき、別に取り立てていうべき事でないにも拘らず、妙に塩野の受け答えが渋りがちにっかえ、ときどき矢代の方を向きかけようとしては、表情をもみ消す彼の気苦労の様子を見た。矢代も関りないことながら、ふと意味なく自分もともに浮き足立って来るもののあるのが怪しまれた。そして、何かそこに、千鶴子と自分との縁談の進行を妨げている介在物の臭いも幽かに起つのを感ずると、やむない宇佐美家の困惑の有りようも、それとなく伝えたい弁明の意を含むようにも受けとられ、無理ならぬ母の苦しい立場も、これで一つや二つではないのであろうと、話の間、矢代は二人の話から疑心をいだく自分の耳を遠ざけたくなり、ビールのコップに唇をつけるのだった。
「千鶴子さん、何か他になかったかしら、こんなチーズだけでしたの。」と千鶴子の母は娘を顧みて注意した。
「他にって、あったかしら、探して見ますわ。」
 千鶴子は母からのそんな注意に、何か思いがけない思慮を汲みとった身軽さで椅子を放れた。
「黴びてやしませんでしたかしら、何んだか、おかしな物を引っぱり出したりして。――あの子は自分の好きな物じゃないともう何も気がつかないんでございますよ。癖が悪うござんしてね。」と千鶴子の母は、もうこのときは知人の母の謙遜さが見えへだてもとれた眼差だった。
「そんなこと、もう御存知でしてよお母さん。」と千鶴子はドアの傍から云った。
「あら、まだあなた聞いていたの。」
「早くお美味しいもの、持って来なさい。」と塩野は無遠慮な冗談を大きくドアの方に対って云った。この塩野の大声は、それまで客間に滞りがちだった窮屈さを一気に揉みほごして成功した。
「食べ物のことで思い出しましたが、パリの罷業のときは千鶴子さんと二人で、コーヒー一ぱいを飲むのに、随分苦労をさせられたことがありました。どこの店も戸を閉めていて、飲みも食べも出来ないんですよ。お蔭で胃が少し良くなりましたが、一番ひどい目に会ったのは僕らのようです。」
 まったくこんな無意味なことを矢代が千鶴子の母に云うのにも、相当の骨折りだった。先ず何より意味など持たぬことをと思い、食物の話などを選んだのだったが、急に千鶴子の母は、
「胃がお悪いんですの。」
 とびくりとした表情でひとり笑わず、問い質すように矢代を見た。なるほど、これは不慮の失策だったと矢代は思った。
「悪いというほどもないのですが、向うで日本食を少し続けて食べたときは、誰でも胃が悪くなるんですよ。そのくせどういうものか、一週間に一度は食べないと、日本で米にあたって来ている中毒を急に脱いでは、体を壊すと、まアそんなことが云われているのですね。しかし、事実、米を食べた日は胃が重くなって、少し憂鬱に黙り込むようになるのは、僕だけじゃないようです。やはり、その土地のものを食べるというのが、一番人体にはいいようですね。」
 無理に弁明したのでもなく、しかし、幾らかは弁解をまぬかれない、板挟みに合った感じで、矢代は、ただの客とは違う自分の位置の難しさを一層感じ、やはりこのような息苦しさは生れて初めてのことだと思った。
「そんなことどなたかにもうかがったようでしたわ。西洋人が日本へ来て洋食をいただいてると、だんだん頭が悪くなるんだとか、その方のお話、なかなか面白いこと仰言ってらっしゃいましたですよ。はア、そんなものかしらと、あたし思いましたが、そうでございましょうねえ。それでその西洋人の方、日本食をこちらでいただくようにしたら、御自分がお国にいらっしゃったときのように、また頭がよくお癒りになったとかうかがいましたわ。」
 千鶴子の母にしても、同様今のような難場に立ち合ったことなど幾度もないことは、彼女のそういう話し方の間のろい調子にもよく出ていた。矢代はこれでどちらも自分の欠点を蔽いつつ、しかも、漸
前へ 次へ
全293ページ中237ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング