あった。
「それじゃ、失礼しようか。」と佐佐は云って身を椅子から動かせた。すると、塩野も立った。
「あら、お泊りになって下さらないの皆さん。あたしはもう準備しておりますのよ。」と千鶴子は塩野と佐佐の両人に云った。
今から帰るのは億劫な様子で暫く躊躇のままだったが、それもついに立ってしまった余勢でうやむやに三人は玄関へ押し出て行った。まだ電車があるのかどうかそれも瞭っきりしないながらも、ともかく夜道を駅の方へ歩いた。矢代は交番の前の椎の樹の傍まで来たとき、また幹をちょっと撫でて仰いでから、「何んだって、物というものは手で触ってみなくちゃ駄目だなア。」と呟いた。そして、ギリシア人の「やがて死すべきものどもが――」という言葉をまた幾度も胸中で云ってみているうちに、それとどこが似ているというわけでないに拘らず、幣帛のあの無限に連り、永遠にわたって沈黙している空間の深さを示す姿を思い出して来るのだった。しかし、なおよく考え込みつつ歩いていると、やはり幣帛の方は、そのような不要なことも人には囁きかけず、表と裏とを見せ、たらりと白く垂れ下っているばかりの静けさで、お前の持ちものをすべて生かせ、そして天に捧げよ、と彼の心に云いかけ、肚のあたりでしっとりと留まるのだった。それはまた自分ひとりにとってそうではなく、やがて死すべきものなら一度はそう思ってみてこそ、どこにも間違いのない唯一のものの姿の静けさだった。矢代は、道というものはそういうものから連って伸びつづいているものに思われ、現に自分の歩いているこの歩道も、その心に縛るものの一端だとさえ思われて来るのだった。
矢代の父の四十九日も過ぎたそのころから桜が咲いた。分骨にした父の骨を九州の郷里の寺と京都の本願寺に納めたいという母の意に随い、矢代は西へ旅立つ日を待った。彼と一緒に母か妹かどちらか一人加わる筈のところも、予後の妹の疲れや千鶴子からの返事のことなども考え、特にその用もないことを矢代は主張してみたが、幸子はやはり行きたがった。
「京都までなら良いだろうが、しかし、九州までとなるとまだ危いよ。」
「じゃ京都まで。」
と幸子は云った。そして、いつか病院へ見舞に行ったとき、京都の美しさもよく見るようにと奨めた彼の言葉を覚えていて、それを楯にしつこく彼を困らせた。表面派手に見えてよくおどける癖のある幸子は、父の遺品が出て来る度に声を上げて泣いた。また父の夢を見たと云っては泣いた。母からからかわれると、泣かない母を不思議だと云って無遠慮に腹を立てた。
「あたしはもう、悲しさがどうしても取れないわ。月日がたつと、あきらめられると人は云うけれど、あたしはそんなに思えない。毎日毎日だんだん淋しくなるばかりですもの。」とそう云って幸子は悄気るばかりだった。
「お前さんを連れてったら、逢坂山のトンネルを這入った途端、また泣かれるね。」
「それや泣いてよ。」
矢代は初めは冗談のつもりでそんなに云ったのも、実際自分も、父の手がけたそのトンネルの中に這入れば何ごとか今から感慨が起って来そうだった。また京都の街を見降す位置にある本願寺の納骨堂に父の骨を納めることは、この街に電力を送っている宇治川の水電を成就させた父の心も安ませることだと思ったが、幸子には、その灯も涙の種になるのかもしれないと思ったりした。
家の周囲には、桜の木が多いというわけではないのに、日ごろ無視されがちだった小木まで陸続と花を咲かせた。それは呼び合うように凄じい勢いで空を占めとり、一年の盛時の絶頂を極めほこる自然の華やかさで、庭の内外、小路の両側、土蔵の隙間に至るまで噴きわたった。いつも春の来るまでは、来ても例年の通りと思う期待で浮くだけの気持ちも、それがいよいよ桜のころに迫ってみると、思いの他ぱッと浮き騒ぐ鮮やかさに、これでは京都の街の騒騒しさも想像の外であろうと、宿をとるのも怪しまれ矢代は花どきを脱したくなった。
ある日、矢代は社長の叔父の所へ、京都へ行くまでに片附けて置きたい相続のことで相談に出かけた。叔父は母方に当るので矢代の方の家事にはあまり干渉もしないとはいえ、会うと嫁の話を切り出すことが多く、矢代も緊急の用事の他は会わない方針でいたのだが、父の死後は株券や税金の取扱いにはこの叔父の智慧が何より役立った。叔父の貞吉は自分の娘たちの学友や知人の娘の写真などを矢代に見せて、彼の意見を覓《もと》めるのも、一つは矢代の母から頼まれているとも受けとれた。彼にしては叔父が自分の嫁に熱心になる以上に、妹の幸子の縁談に意を向けて貰いたく思うこのごろで、それとなく幸子の病いの全癒を報らせる方に話の傾きがちになるのには、叔父も不興げな様子だった。
「潮どきは脱すものじゃないぞ。嫁の顔は不味くとも、月日がたっといつの間にやら氏育ちが顔形に
前へ
次へ
全293ページ中239ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング