りに皆と一緒にエレベーターの口まで行こうとしたとき、軽く後から矢代の肩を打つものがあった。見るとそれは久木男爵だった。
「君、今晩ここで泊ってらっしゃいよ。先日お約束の電報を上げようと思って、田辺さんにあなたのところを調べていただいたところが、御不幸があったということで、つい遠慮をしました。どうも御愁傷さまで。」
と男爵は、もういつもの笑顔に戻り穏やかなお辞儀をした。
「有りがとうございます。」
矢代は尋常にこのとき返礼だけは出来たが、それでもぼッと熱気に蒸されたような困迷を覚え、却って落ちつき払ったように身体がそこに突き立ったままだった。
「しかし、もうお暇も出来たでしょう。お父さまの御病気は?」とまた男爵は優しく訊ねた。
「脳溢血です。」
「ほう、それじゃお名残り惜しいですね。お幾つでした。」
「七十一です。」
「じゃ、わたしとあまり違いませんね。そろそろわたしにも廻って来ますかな。」
気軽く笑いつつも微妙な変化を示す男爵の前にいると、矢代は、ふと自分の中に父もともにいるような重圧を感じ、生前男爵に抱いた父の気持ちがそのまま姿勢にまで加わろうとするのだった。彼の頭の高さも父から叱りつけられるようで、たしかに先日侯爵邸で会ったときとは、また別した渦巻きを体内に感じ、ともすると表情も固まろうとするのを、彼はようやく平素のままに心を支えて帰りを急いだ。
「今夜のお話はたいへん結構でした。もう少し精しくお訊きしたかったのですが、今日は友人が多いものですからこれで失礼します。」
エレベーターの扉の中へ皆の這入るのを眺め、矢代も久木男爵にそう云って後から自分も入った。遊部や速水は侯爵夫妻の空いた自動車で帰ることにしたが、矢代は昼からの会合に人疲れを覚えたので乗り切れぬ自動車をやめて歩くことにした。しかし、急に由吉ひとりは平尾男爵らとホテルへ残ると云い出したため、千鶴子だけ先に帰ることになった。
「枕木さんからのお土産でもあるんでしょう。きっと。」
宿泊する由吉の意存を千鶴子はそう云い当てて矢代と歩いた。他に塩野と佐佐もいた。みな疲れている様子で薄霧の降りた夜道を黙りつづけた。海からすぐの河口まで来たとき、誰からともなく橋の上で自然に足が停った。ほの白く煙っている潮の灯を見ているうち、佐佐が軽い吐息をついた。欄干の鉄の冷えているのがいつかまた旅の日の夜を思い出させて来るのだった。しかし、矢代はこの日、槙三から持って来てくれた千鶴子の報知のことを思うと、それが何よりも嬉しかった。海の開けている河口の霧も、末拡がりに開いた白い扇に見えて元気が出た。彼はこのような機会に、千鶴子の家へ結婚を申し込むべき形式の相談を二人でしたいと思ったが、傍にまだ人がいてそれも出来がたかった。橋の欄干から離れて歩いて行くときも、矢代は暫くそれを云い出す機を覗って緊張した。賑やかな通りに出てからも、傍を人の通り抜けようとするとき、身を除ける自分の肩が千鶴子に触れると、つい押し気味になって彼は千鶴子を道の片側によせていった。そして「今夜はお宅まで送らせて貰いますよ。」と云ってみた。
まだ意味も分らぬ容子の千鶴子は、ちらっと彼を見て笑っただけだったが、そのとき烈しく片頬に灯を受けた靨の鮮やかさは、初めて船で見たときと同じ美しさだと矢代は思った。
「僕は二三日中に重要な手紙を上げたいんですが、そのときには、あなただけでも、うんと云って下さい。良ろしい?」
千鶴子は返事をせずに軽く一寸頷いた。
四人づれの矢代らは、省線を降りてから暗い道を幾つか曲って行くうち、もう来た方向も忘れるほどになった。道路の中央に椎の木が肌に飴を噴き流し一本立ちはだかっていた。穴のある節くれ立ったその幹の裂けた半面に、交番の灯が射していた。矢代はいつか秘かに来て見てここで車を降りたときの、見覚えのある樹と交番だと思った。
近づいたとき彼は、馬の首を打つように懐しく椎の幹を叩きながら、
「もう遠くはないなア、これは見覚えのある樹だ。」とひとり呟いた。
それは名木だった。高さは夜分で分らぬながら、見上げる枝は道いっぱいに拡っていて、四人づれの矢代らは両側に裂かれてそれぞれ通っていった。練塀を連ねた静かな小路に瓦がしっとり重く湿って見えるころだった。
「君来たことあるの、ここへ。」と塩野は不思議そうに訊ねた。
「一度通ったことがあるんだ。秋だったかね。」
外国から帰った当夜、自宅へ戻るより先に、ここまで飛ぶように来たときの、あの思い上ったような寂しさや身の軽さを彼は思いあわせ、今夜の夜道はそのときとは違い、よほど踏み応えのあるたしかなものに見え、これからも幾度ここをこうして通ることだろうと考えたりした。しかし、そういえば、千鶴子と初めて船で会ったとき以来月日はまだ一年よりたたない
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