のだと思った。ただの一年で見切れぬものを見、聞きなれぬものを聞き、行いきれぬものを行った結果が、この夜道を選んだのだとすると、間もなくこれから見える千鶴子の家の門口は、自分にとって地獄か天国か、どちらかの道の入口にちがいはないとも思った。
「今日は僕らは一日海を見て暮したが、何んでもない日じゃなかったね。僕は東野さんらの船の入港して来るのを見ているとき、旅立ってから一年もたったのだなアと思ったが、しかし、君、あの夢みたいな僕らの一年は、あれは非常な生活の実践だったどいうことが分ったね。みんな、あれは幻影じゃない、実践だったのさ。僕の死んだ父親だって、また君らのお父さんたちだって、生きているうちに一度はどうしても行ってみようと一生思い詰めて、とうとうそれも行われずに死んじまったことを、ともかく曲りなりにも、僕らは実践しちゃったんだからね。そしてどうだろう、何んのことはない、二代もかかって紙一枚の御幣に気がつくなんて――」
矢代はその最後のところで云い辛くふと黙ると、「残りたる紙一枚や父の春」と、そんな句が口から自然に出た。ブロウニュの森で東野や久慈たちと句作をやって以来の彼の句だったが、よく意味の分らぬままにも暫くそれを呟きつつ彼は俯向いて歩いた。
まだ棕櫚縄の結び目の新しい千鶴子の家の建仁寺垣が見えて来たとき、塩野は、「じゃ、ここで失礼しよう。さようなら。」と千鶴子に云った。
「どうもありがとう。でも、ちょっと休んでらっしゃらない。まだそんなに遅くはないんですもの。ね、お這入りになって――」
千鶴子はいつも入りつけている塩野に云う無雑作な声だったが、入れば中にいる彼女の母に初めて会う矢代の困惑の様子を慮ったと見え、幾分ためらう色のひそむのもすぐ闇の中で矢代は感じた。
「どうしょう。休まして貰うか。」と塩野はまた矢代を見て訊ねた。
今夜は千鶴子の家まで送ろうと、横浜でそう云い出したのは矢代自身だったが、それも中へ入るつもりの毫もなかったこととて彼は返事に窮し、「しかし、もう遅いからここでお別れにしよう。」と云って停った。
「でも、ちょっとお茶でもめし上ってらして――」
と、今度は千鶴子は矢代にはっきりした笑顔で云った。このときは前のためらいも消えていて、いずれ来るものは来ると即座に決断した女性の大胆な変化が見えた。チロルで氷河を渡ろうとしたときも同じ落ちつきで、ぐんぐん彼を氷の中へ誘い込んだのも、ちょうどこんな千鶴子だった。
しかし、いずれにしても、今この門を潜るのは少し無謀なことであった。思慮あれば避けるべき筈の場合だったが、門柱の横の潜戸の中へ消えた千鶴子の後から、何んの相談もなく続いて塩野も潜ると、矢代は自分ひとりそこから去るのも、むしろいかがわしい咎めを残すばかりに感じられ、特別な一大事の前後の処置とは思えぬ気軽さで彼も潜っていった。そして、底白い砂の拡がりを踏みつつ彼は、いちいち自分の微細な動作まで手にとるように分る緊張にも拘らず、どこかぶらりとした旅ものめいた暢気さもあって、まだ見ぬ千鶴子の母に会う興味さえ覚えて来るのだった。矢代を撥ねつづけていた母親だけに、彼は初めてその人に会うことに張り合う気もうすうすに感じ、大玄関の框の前でみなと一緒に靴を脱いだ。
玄関から畳廊下を右の方へ行った突きあたりのスウィッチで、廊下より一段低めな応接室に灯が入った。隣室から離れた感じの厚壁に包まれた親しみある部屋の中を矢代は眺め、また庭を暫く眺めた。
「この画、佐佐んだが、この景色は君もたしかに見た筈だよ。」
と塩野は暖炉棚の上に懸ったパリの風景画をさして云った。
画はパンテオン附近の裏小路らしい風景だったが、崩れない確実な筆触の美しさは佐佐の頑固さと同時に、明澄な純粋さを保持しつづけようとして苦しんでいる、彼の性格もよく現した絵だった。
「とにかく色調に細やかな愛情が出ているところを見ると、どうも、自分の部屋から始終眺めた景色らしいな。」と矢代は絵に対ったまま云った。
佐佐は「うむ」と口重い笑顔で頷いて、自作と再会した嬉しさを白い歯に見せ、椅子にかけてもまだ絵から視線を放そうとしなかった。部屋の隅にグランドピアノがあり、壁に添った棚には由吉の趣味と見える陶器が幾つも置いてあった。一つはアフリカの器らしい厚手の水指と、支那の慶磁の白い湯呑、それに日本物では紫野の茶碗、その横に朝鮮の鶏龍の蓋物の鉢が一つ。中でも鶏龍の別毛鉢が一番優れて美しかったが、それらの選択の仕方には、特に大物をさしひかえた凝り性の滋味な統一が伺えて愉しみぶかい選択だった。
千鶴子がお茶とお菓子を持って来た。家人はもう寝たと見え庭に射し込む灯影がどの部屋からのもなく暗かった。千鶴子はまた引っ込んで出て来たときには、今度はチーズとビールを擁えて来た
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