の動いて来た様子で訊ねた。
「さア、それはわたしも初耳でしたね。しかし、そう云われてみると、なかなかこれは面白い、というより、強く胸を打って来るものがありますよ。たしかに――耶蘇の方の千八百七十七年は日本のいつごろでしたか。」と久木男爵は一同の顔を見廻した。
「明治十年ごろでしょう。」と矢代は答えた。そして、そう答えてしまうと同時に、その年の前後は日本にとっても重大な転換期だと思いあたり、光は東方よりという言葉も思い出すと、そのころより漸次に、光度を世界に増していった夜明けの日本の姿も彼は思い出されて来るのだった。
 久木男爵も考え込むときの例の癖を出して眼鏡を脱し、暫く鋭い表情のまま黙っていてからまた云った。
「ともかく、幣帛の形というのは幾何学として見ると、一枚の紙が連続的に、裏と表とを見せて無限に垂れているところに、現在の集合論との関係が成り立っているわけですから、鍵はどうもそこの連続の場所にあるらしいようですね。しかし、それはなかなか結構な問題ですよ。」
 久木男爵はそこまで云って一寸説明を止めたが、複雑な問題を手ごろなものに纏めたい工夫で、眼の光りがますますこのときから強くなるようだった。
「さきもお話した通り、愛人同士が手を繋ぐ、一対一の対応というのは平面上のことだったのですがね。これがいろいろに発展して、立体上にも同様に手を繋ぎ得る対応があると考えられるようになってからは、立体と平面との区別がっかない混乱を惹き起したのですが、その後になって今度は、ヒルベルトという大家が出て来たのですよ。この人は、平面とか立体とかの次元を比較するのに、前のカントルのように一対一の手を繋ぐ対応を考えるのを中止して、先ず平面と立体とが連続したものとして、つまり、陸と海とが口をつけた港港を行くように、そこの口をつけた連続ということを中心に、考えを発展させたのですね。そうすると、一枚の紙を無限に連続させて切るためには、どんな切り方をすれば良いかということが、一番の難しい、また新しい問題になって来たのですよ。要するにその切り方の形が幣帛と同じになって来ているところが、今仰言たようなことになっているんじゃないかと、こうまア私は思われますがね。しかし一寸不思議だな。数学者たちは宇宙の姿をメビウスの帯と称して、紙の形で描いておりますが、なるほどそのメビウスの帯は、幣帛に似ていますよ。わたしもなおよく研究してみますが、しかし――不思議な国だなア日本というのは。エジプトからかな。その御幣は。」
 頭を椅子につけ天井を見詰めてそう云う久木男爵は、もうこのときから一同とはまったく別の世界に入っているらしく、笑顔も消えた孤独な眼だけぱちぱち瞬いていた。
「しかし、そういうことになると、世界の人間どもに港から港へ旅をさす幸福を与えてやるのは、いよいよ御幣らしくもなって来たね。よほど話が整って来たよ。」
 由吉はパイプに火を入れて云ったが、もう今は彼について笑うものもなく、海からの夜風にガラスの冷えて来た部屋の中で、一枚の白紙に吸いよせられたように、一同は妙に静になってしまった。平尾男爵は手帳を出すと、「千八百七十七年と。カントルだね。」と呟いて記入した。そして「僕も帰り着いた夜、こういう風向きになろうとは思わなかったな。しかし、これで多少は僕の研究に方向がついて来たよ。東野君、君の専門の方はどうかね。その千八百七十七年前後のあたりは?」と訊ねた。
「そりゃ、勿論、立体も平面もこの世から姿をかき消した時代だよ。何しろ明治十年というと、西南戦争のときだからね。あのころは、隆盛の細君が香銭七百円もらって、突き返して人気が出るやら、吉原の女郎が洋装してみな並んでみたりするやら、そうかと思うと、そうそう、たしか、湯島に数学会社というのが出来た年だよ。会員が九十名だ。医学会社というのも出たね。何んでもやたらに、資本金七万円、五万円という会社が出始めたりしているよ。柳原愛子皇太子を分娩す、なんて新聞記事があの年に堂堂と出ていたのを、何んかで見たことがあるね。西郷隆盛の首がないので、大騒ぎしている記事と一緒だものだから、覚えているんだが、米が君、二銭五厘のときだ。それでも、日本の渥美半島の酒が、フランスから註文を受けたので、びっくりしたりしている。とにかく、三井が創立式を挙げた年で、軍艦が横須賀で初めて出来た年だ。」
 東野が声の調子がとれず、強くそう云っている途中でも、平尾男爵の令嬢たちはもう椅子の上で眠りかけていた。それまでそわそわと落ちつかなげにいた真紀子は機を見て立ち上ると、家がこの近くだから先に失礼したいと云って一同に挨拶した。すると、「それでは僕も」と云い出すものも多くなって、真紀子の挨拶をきっかけに急に遽しくそれぞれ椅子から立った。残るものらも下のロビーまで送
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