二時を過ぎているのに病院の玄関にはまだ灯が点いていて、着替えてもいない医者がすぐ出て来た。そして、矢代の話す父の容態を良く聞きもしないうちに、
「今さきも同じ患者さんがあって、帰って来たばかりですよ。お天気が激変しましたからね。」
 と云うとまた医務室へ這入った。雪で自動車の動かぬ弁解も少しあったが、それでも医者は彼と一緒に雪の中を歩いて来てくれた。
 家では父の吐物がもう片付けられ、蒲団から乗り出した父の頭の下に別の蒲団も継ぎ足して敷いてあった。仏壇や神棚に灯明も上げられた明るく変った家の中で、母は覚悟あるらしいひき緊った顔に戻っていた。取り替えた着物もさっぱりとしていつもより母は若く美しかった。
 医者は矢代より先に玄関を上ると無造作に障子を開け、襖を開けて父の寝ている部屋を直感しているらしくどしどしと奥へ通った。そして、矢代が家を出るときと同じ様子で倒れている父の襟を大きく開き聴診器を胸にあてた。厚く逞しい父の胸部には起伏もなく色も早や幾らか変っていた。診察を終ってから、医者は傍に坐っている矢代と母の方に対い、
「御愁傷なことでございます。」
 と一言低く云った。医者の帰っていったその後から、矢代も何んとなくまた家を出た。
 門灯の光りのとどかぬ雪の上には、矢代と医者と二人の通った跡だけ窪んで見えた。その窪みの中へ足を入れて歩く間も、矢代はさまざまなことが頭に泛んでまた消えた。
 檜葉に積った雪がトンビの羽根に擦れこぼれていった。彼は雪の中を見廻し、あらためて父の死が本当のことかどうか験してみたくなったほど、どこか胸の中心が痺れ、そこだけ脱け落ちたようにしんと静かだった。
 しかし、いったい、これが死だろうか。
 あッという間にどこから躍り出て来たものか、とにかく、あたりの闇の中にそれがいたのだ。彼は暫く手応えのない問いをつづけつつ、医者と並んで歩いているうちに突然慄えが来て止まらなくなると、そこで医者と別れてひとり引き返した。いつかは一度来る恐るべきことにしても、しかし、それが今来たのだ。何か切迫したものがいよいよ虎口を開けて身近に詰めよっているのを彼は感じ、それと闘う準備に寸分隙も赦さぬ注意力で、心の鞘を払い落とし、抜き身をさげたような待機の心構えも自然と出てくるのだった。
 しかし、もう父はいないのだ。とまた彼は思った。時間がどこかで急に脱れ、勢いこんで自分の中へ流れ崩れて来るかと思われる。何ごとか壮大なものの傾き襲ってくる激しさも覚えて彼は空を仰いだ。そして、必ず昇天しているにちがいない父の魂の行方に対して祈った。顔に降りかかって来る雪の冷たさが、天に向う悲しみのように巻きのぼっては、また心に沁み落ちて来た。
「今夜はお天気が激変しましたからね。」
 歩きながら、そう云った医者の言葉をふと彼は思い出した。がまた、亡くなる前に久木男爵と会ったことを父に報らせて喜ばせたことも、争われず刺戟を父の血管に与えた一条件になっているとも思われた。彼は家の中へ這入ってから、火鉢に火を起している母の横へ坐り、何かするべきことを考えたが、特に何もするべきことも無いようだった。
「お父さんを寝せ変えましょうかね。」
 と、彼は母を驚かせぬように注意して云った。
「そうそう。」
 母と彼とは父の寝室へ入った。そして、牀の前へ新しく敷き変えた蒲団に、正しい姿勢で父を寝かせようとしたが、もう父の身体は板のようにぴんと足を張り、吊り伸びてこちこち鳴りそうに固かった。彼は父の胴の下へ手を廻して跼み込むと、顎が腹部へ触れたその途端、急に悲しさが込み上げて来て顔を父の腹に伏せたまま声を上げた。
「立派な顔になってらっしゃること。」
 母は微笑を含んでいる父の高い額を撫でながら一言いった。すると、彼はまた急に悲しさが引いてゆくのを覚え、腕に力を籠めて父を抱き上げた。
「でも、喜んで死なれたんだから、まだ良かったですよ。ほんとにあんなに喜んでね――」
 父を正座へ寝かせてからそう母は独り言をいって、子の矢代とは反対にどこか嬉しそうな表情だった。見たところ、少しも悲しそうでない母が矢代には分らなく、また物足りなかった。彼は火鉢を運んで来て、このまま父といつまでもこうしていたいと思った。一夜の看病も出来ずにしまった死の速さに、父の身体がどんなに変ってゆこうとも、激しくなお父のために疲れたかった。母は小箪笥から白い手巾を出して来て父の顔の上に拡げた。気のせいか、そのときから俄に母の腰が少し曲ったように見えた。そして、その老い込んだような姿でのろのろ部屋を出ていくのを見ると、矢代は、再び悲しさが込み上げて声を止めるのに困った。彼は自分の腕を横に噛み暫く声を殺してぶるぶる慄えつづけた。

 朝になってから矢代は少し眠った。そして、正午ごろ眼を覚したとき、妹の
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