宰府に流した暗さだったが、些細なこととはいえ、矢代は幼少のころから、お前は天神さんの御命日に生れたのだと母から聞かされていたために、特に道真のことは矢代の気にかかった。母にせがみ梅を庭に他の樹より多く植えて貰ったのも、一つは道真の好きな梅が伝染ったからでもある。今、時平の父の名とともに泛ぶ庭の梅に、音たてて降る雪の冷たさも、彼の記憶のうすら寒さとなり、一抹の憂鬱さを沁み込ませて来るのだった。
「しかし、まさか先祖はあの時平の父の基経ではないだろう。」
矢代は父が寝てしまってからも、自分の書斎でひとり呟き、基経、時平あたりの歴史書を急に開いてみたりした。すると関白基経の生んだ穏子から二人の天皇までお生れになっているのが分り、これは有り難いことだと、俄に彼は清水を含んだ思いに立ち返って、暗怪な時平に代り、その妹の穏子の方の身の上を想像しながら、夜更けまで藤原北家の流れの行方を尋ねていった。しかし、父の云った基経は、まさか穏子の方のあの親ではないだろうと、今度は前とは逆で、寂しく西海の波のまにまに漂っていった田舎藤氏の末を、長い旅の愁いのように崩れた郷里の城砦を渡る松風とともに眺めるのだった。
彼は窓を開け雪の深さを覗いた。灯に射し照された梅は、明暗鮮やかな勁さで枝を雪中に差し交していた。その冴え静まった群落した枝を掠め、大粒の雪が夜ふけの物音のように降りつづけた。踊り狂う雪足の紊れながらも、幽かに梅の匂いも漂っている雪明りである。彼は日本の歴史の味わいに似たものをふと感じ、帰って来た郷のりりしい清爽さを身に沁み覚えて戸を閉めだ。彼は父の話した基経が何者であろうとももう同じことだと思った。
寝床の中へ這入ってから、彼は間もなく自分の誕生日の来ることに気がついた。そして、去年のそのころは航海の途中で、船室の鉢の桃の芽が加わる南国の暑さに、いたずらに伸び繁っていった無聊さを思い出した。ピナン、コロンボ、アデンと進むその船の中では、千鶴子と久慈がいつも手を取り合わんばかりにして、甲板の影から影を愉しげに廻っていたものだったが、過ぎ去った日の悩ましさも消したくなって、矢代は、蒲団の中で寝返りうった。枕から耳が上ったふとその拍子に、幽かに何か呻き声に似たもの音が聞えて来た。それは父の寝室かららしく、暫く途絶えてはまたつづいたかと思うと、その後はしんと沈み、動悸だけ騒がしく響いてもう彼は眠れなかった。母は父の鼾声の高くなったこのごろ、眼が覚め易く別室で眠る習慣だったから、母にはまだ父の呻きも聞えていないかもしれないと思い、彼は起きて父の部屋の外の電気を点け、襖を細目に開けてみた。呻きらしいものもそのときはもう聞えなかったが、嗅ぎ覚えのない悪臭が部屋に籠っていたので、なお少し襖を開けて光りを中に入れてみた。すると、蒲団から乗り出た父の白髪が、あたりいちめんに流れている茶褐色の液体の中に俯向いたままじっとしていた。矢代はただ事ではない父の容体を感じ、
「お父さん、お父さん。」
と耳もとでそう二言つづけて呼んでみた。しかし、色のない耳朶の裏が寂しく見えるだけで、もう父は返事をしなかった。彼は全身に滝の落ちかかって来るような重い戦慄を覚えた。そして、
「お父さん。」
とまた大きく呼んだが、やはり同じだった。液は口から吐いたものと見えて畳の上に多量流れていた。素人目にも脳溢血の疑い確実だったので、彼は父の体を動かさないようにしてすぐ母を呼びに行こうと思って父の手頸を執ってみると、もう脈も響かず瞳孔も開いていた。万事駄目だとだけ直覚され、彼は膝をついたままそこから動けなかった。小机の上の置時計の針が丁度二時を指していた。父が寝室へ立っていったさい、襖に一寸手をかけた後姿を眼にしたのが、最後の父の姿だった。それまでどちらもその別れさえ知らずにいたのだと、ちらっと瞬間思ったばかりでぼんやり彼は端坐をつづけていた。
「どうしたんです。」
母が暫くして入って来た。すると、急に何も云わなくなった母は何ぜだか勝手の方へまた戻った。矢代は父の亡骸から離れると、医者の来るまで父を動かさない様に母に頼み、云うべきことは今はそれだけにして外套を着て外へ出ていった。雪は路に降り積っていた。彼は歩きながらも、一大事が起っているのに何か間の抜けた気持ちで、身体の中に一つ大きな空洞の生じたのを感じ、まだ見たこともない冷え冷えとしたものが、徐徐にそこを満している緊張を覚えるばかりだった。
足駄の歯の間に雪が溜り込んで膨れ、彼は片膝をついて一寸倒れた。急いだとてもう遅いと分っていてもやはり彼は急いで歩いた。すると、母が父の鼾の高さを嫌って別室で眠っていた習慣が、俄に腹立たしくなって来た。が、一人今ごろ周章《うろた》えている母の姿を思うとそれも気の毒になって来るのだった。
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