幸子の声がもう勝手の方から聞えて来た。矢代は叔母夫婦や従兄たちのより集っている奥の間へ出ていって、葬の日取りを皆で定めた。母は一日でも永く父を傍に置きたい口振りになろうとするのを、矢代は親戚たちの迷惑なことも考え、日を繰り早めてみるのだった。母も別に異議を挟まず、素直に彼の意見に従ったので、葬式は二日後になった。その後、婦人らの手で経帷子が忙しく縫われ始めた。
夜になり棺が家へ届いてから皆で父の湯灌をした。素足に草履を穿き襷をかけた彼と、母と妹と、それに従弟も加わった皆の同じ様子は、雪の夜中どこかへ仇討に出かけて行くような勇ましい装束だった。それも緊張した表情を泛べているとはいえ、見馴れぬ異様さに、互に顔を見合せて一寸笑った。そして、それぞれ父の身体をアルコールで拭き浄めていくのだった。母と幸子は頭と胸を拭き矢代は胴と足へ廻った。
父の身体にはもう薄紫の斑点が泛んでいて、筋肉を圧えてみる指先に弾力が感じられず、たしかにこれはも早や父ではない物体に変っていると、矢代は思った。
拭き終ってから、皆で父を吊り上げて棺へ納めようとしたとき、背中が汗ばんだ温くもりで湿っているのに、死臭が幽かに鼻を打った。すると、胸の下へ手を入れていた幸子が突然父から手を放した。
「お父さんまだ温かいわ。もう一度お医者さんに診ていただこうじやありませんか。あたし死んだんだと、どうしても思えないわ。」
強くそういう幸子に母も戸迷ったらしく、同様に手を放すと、
「そうだね。」と云ってぼんやりした。一瞬、争われぬ父の死に拘らず、誰も疑いを起した沈黙がつづいた。
「ね、そうしましようよ。こんなに温いの、死んでる筈ないじゃありませんか。」
とまた幸子は片膝をついたまま皆の顔を見廻した。
「それや駄目だよ。さア入れよう。」と矢代はためらう皆を促して云った。
「だって、こんなに温いんですもの。あたし、このまま入れるのいやだわ。」
「いやもう間違いない。」
矢代は介意わず父を抱き上げたので、また一同のものも彼に手伝って父を棺へ納めた。枕も紙製のが棺にあって、檜の白木が造花や経帷子の中から強く匂って来た。奥の牀へ横に長く納った棺側に大きな花環も並ぶと、それで次第に葬の形が整っていくのだった。見よ人これにて定まれり、と厳然と云い放っている棺であった。それが父から矢代の教った最後の訓戒であった。
降りやんだ雪の中で、矢代の家の中はめまぐるしい多忙さだった。地方から出て来た親戚や父の友人、その他会社関係の悔み客との応接などと彼は眠る暇もなかったが、突然の父の死に見舞われた最初の打撃のためか、彼は、忙しさの中でも虚ろなものを抱きかかえて坐っているような思いがつづいた。殊に母が一層そうだった、妹の幸子は病後のことでもあったから、直接忙しさの中へ立ちよらせぬことにしていたとはいえ、それでも何にかにと母に代ってよく立ち働いた。
葬儀は親戚の敏腕な若い銀行員を委員長に頼んであったので、万事矢代の知らぬ間に順調に進んでいった。勿論、式は父の宗旨の真宗にすることにしたが、彼は自分のときならこれも神式にしたいとひそかに思った。
「わたしはお宅の旦那と、門口でお昼にお目にかかって立噺したばかりですよ。それにその夜亡くなられたとは、もうびっくりして、世の中が恐ろしくなりました。」
勝手口で母にそう云っている酒屋の主人の話も聞えるままに、矢代は告別式へ出る袴をひとり部屋で穿いていた。そこへ女中が悔状の郵便物を沢山揃えて小机の上に置いていった中に、一通千鶴子から来た見覚えの封筒が眼についた。彼はすぐそれを抜き出して懐中に了い込んだ。千鶴子にはまだ父の死を報らせてなかったのに、偶然にも手紙が告別式の前に届いて来たことは、内容はともかく、ともに彼女も父の葬儀に列ってくれる意志のように思われた。紋服の出入の激しい渦の中でも、矢代は何んとなく懐中に一点の温もりを感じ、消え残っている庭の雪を眺めて立っていた。もし父の死が今より遅く来たものなら、あるいは千鶴子も、自分の家の中心になって立ち働かねばいられぬときだった。それも、彼女のために先日買って届いて来たばかりのソファが、応接室で人知れず客を坐らせているだけの、今の勤めであった。
彼には父だけは自慢で千鶴子にひと眼見て貰って置きたいと思った。
間もなく寺から来た僧侶の誦経が始ったので、矢代は家の者や親戚たちと一緒に棺前に並んだ。誦経の声は渋い良い声だった。意味がよく分らなかったが、真宗の教祖の親鸞の思想は、前から彼は好きだった。
よく晴れた暖い日で、いつも来る鶯がこの日も庭に来ていた。父のいた平安な日が今日も外には来ていたのだと、ふと彼は思った。
それにも拘らず、起ることは起っている――そう思うと、その起って来た死も特別なことではなく
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