の男の方それや好きなの。あたし、住むならパリか東京よ。」
「じゃ、あなたはパリ人の中でも日本人らしい人なんですね。」
「それはどうかしら、自分のことは分らないから。」
このような会話を矢代は詰り詰り云いつつ婦人を機械と見ねばならぬ冷たさから、一種の明るいヨーロッパ式な気軽さも感じて話が楽になって来た。
「僕はどういうものか、パリへ来てから日本のことが気にかかるんですよ。あなたは日本のこと書いてある新聞を見たら、これから皆買って来てくれませんか。僕は三倍の値で買いますから。」
「駄目よ、日本語で云っちゃ。もう一度。」
とアンリエットは笑いながら矢代の口を手で制した。
矢代は会話が面倒になって来ると、純粋な発音を習うためにアンリエットに本の音読を頼んでみた。すると、一つの本を二人で見なければならぬ必要から、アンリエットは椅子を動かし頬も触れんばかりに近づけた。矢代は何んの計画もなく音読を頼んだのに、それがこんなにま近くよりかかられると、これは失敗したと後悔した。アンリエットにしては、語学を習う日本人なら、何れこの姿勢が面白くて習うのだと思い込んでいるらしい様子がまた矢代に落ちつきを与えなかった。
矢代はサシャ・ギトリの戯曲の会話をアンリエットに随って、自分も読みすすんだ。やや鼻音を帯びたうるんだ肉声で流れるように読むアンリエットは、渦巻く髪をときどき後ろへ投げ上げた。どちらも片手で受けている頁の上へ曲げよせている窮屈な肩がその度びに放れたが、またいつの間にか両方から傾きよった。矢代は外国へ来た日本人の多くの者が、みなこのような勉強法をして来たのだとふと思った。沢山な金銭を費っての勉強であってみれば、楽しみながらの勉強も自然なことと思われたが、しかしたとえ毎日これから今のような険悪な姿勢がつづくのを思うと、ひとつ日本の礼儀の伝統だけは持ち堪えていたいものだと身を崩さず緊きしめてかかるのであった。この音読の練習は切迫した肩の支持のために、時間も意外に早くすぎていった。アンリエットは本をばたりと閉じると、
「今日はこれだけにしときましょう。」
と云って椅子から立ち上った。矢代はアンリエットをあくまで教師として扱いたかったから、
「ありがとう。それから研究費は一時間幾らです。」とすぐ訊ねた。
「久慈さんのは二十|法《フラン》ですが、あなたのは十法にしときますわ。」
向うから出かけて来て一時間十法なら日本金にして二円五十銭であるから、破格に安い値であった。
「それはありがとう。」
と矢代は礼を云ったものの、久慈の値より負けられたとあっては自然に食事の費用で補いたくなるのだった。アンリエットは若芽色の皮の手袋をはめ、
「あたしの発音法はこれでまだ完全じゃないのよ。パリの人の発音はたいていはまだ駄目。やはり、一度ギャストンバッチの女優学校へでも這入って、正規の発音を習わなきゃ、信用出来ないわ。」
このパリの高い文化でさえがそうなのかと矢代は驚いた。
「そういうものですかね。しかし、日本にも日本語の完全な発音なんかどこにもないですよ。東京の者だって、つまりは東京の方言を使っているんですからね。」
アンリエットは先に暗い螺線形《らせんけい》の階段を降りて行った。後から矢代は降りるのだが、自然に眼につくアンリエットの首の白さも人知れず眺める気持ちは、不意打ちを喰わせるように感じられ彼は幾度も眼を転じた。しかし、螺線形の狭い階段は降りても降りても変化がなかった。絶えず眼につくものは階上からつづいて来たアンリエットのなだらかな首ばかりでありた。しかも、巻き降りている階段は長いので撃たれたように前に下っている首筋は、見る度びに眼のない生ま生ましい顔のように見え、矢代はだんだん呼吸の困難を感じて来るのだった。
「ドームで、久慈と千鶴子さんが待ってる筈ですから、あなたもどうです。」
千鶴子が傍にいればアンリエットは遠慮をするかもしれぬと思い、矢代はそんなに云ったのであるが、むしろ彼女は悦ばしげに、
「あたしが行ってもいいんですか。」
と訊き返した。
「どうぞ。」
二人は二列に並んだ篠懸の樹の下を真直ぐに歩いた。地下鉄の口からむっとする瓦斯が酸の匂いを放って顔を撫でた。矢代はこの気流に打たれると、いつも吐き気をもよおして横を向き急いでその前を横切るのである。
「あの地下鉄の入口の所の飾りね。あれは大戦前のものなんだけど、みなあのころはあんな幽霊のようなものばかり流行したのよ。人の頭もそうだったんですって。」
そんなに云われるままに、矢代は見るとなるほど入口は蕨のような形の曲った柱が二本ぬっと立っているきりである。
「あんな幽霊のようなものが流行るようじゃ、戦争も起る筈だな。」
「そう。あのころは幽霊の流行よ。有名なことだわ。」とアンリエ
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