ットは云った。
 しかし、今はどうであろうかと矢代は思った。街には日本の玩具が氾濫していた。カフェーや料理屋の器物はほとんどどこでも日本製のものばかりだった。一番物価の安い日本から一番高い物価のパリへ来た矢代は、街を歩いているだけで世界の二つのある極を見ているようなものだと思った。
 ドームへ来ると、人の詰ったテラスの一隅に、日本人が三四人塊って話をしていた。皆は矢代を見ると、どこか痛さに触れるようにさっと横を向いたが、その中に東京で講演を聞いたことのある東野という前に作家をしていて、今はある和紙会社の重役をしている中年の男だけ一人、矢代の方を見詰めたまま黙って煙草を吹かしているのと視線が会った。その作家は矢代より少し早く神戸を発ったのを新聞で見たことがあったから、矢代も行けば逢うこともあろうと思っていたので、これを機会に話してみようと思い東野の傍の椅子を選んだ。
「失礼ですが、僕は一年ほど前にあなたが講演なすったのを、東京で聞いたことがあるんですよ。私はこう云うものです。」
 と矢代は云って名刺を出した。
「そうですが。僕は先日来たばかりで何もまだこちらは知らないんですよ。」
「僕もそうです。あなたより二船ほど後なんですよ。」
「じゃ、僕の方が兄貴なわけですね。宜敷く。」
 淋しそうな東野は自分の名刺を出そうとして財布の中を探し始めた。そこへ久慈と千鶴子が放射状の道の一角から現れた。
 久慈は、「待ったかね。」と云って矢代の傍へよって来ると、
「この人、アンリエットさん。」
 といきなり彼から千鶴子に紹介した。アンリエットと千鶴子は自然に見合って握手をした。どちらにしても敵意など起りようもないのが今の情態だったが、それにしても微妙な白けた瞬間の気持ちの加わろうとするのを矢代は感じ、すぐ傍の東野に久慈を紹介した。
「東野さんはあなたでしたか。」
 紹介したりされたりで急に足もとからばたばた鳥の立つような眼まぐるしい表情の配りだった久慈も、矢代とは違い東野にだけは自分の気持ちも通じそうに思われたらしく、突然彼の方に傾きよると、
「どうですか、パリの御感想は。僕は毎日、この矢代と喧嘩ばかりしてるんですよ、この人はひどい日本主義者でしてね。僕はどうしてもヨーロッパ主義より仕方がないと思うんですが、あなたはどちらですか。」
 こんな質問をいきなり初めてのものにするなどということは、日本でなら何をきざなと思われるのが至当だが、それがここで云うとなると、不思議に自然なことに思われるのだった。東野もうるさそうにもせず、
「そうですね、日本にいれば僕らはどんなことを考えていようと、まア土から生えた根のある樹ですが、ここへ来てれば、僕らは根の土を水で洗われてしまったみたいですからね。まア、せいぜい、日本へ帰れば僕らの土があるんだと思うのが、今はいっぱいの悦びですよ。」と云った。
「しかし、何んでしょう、合理主義は何も日本だってヨーロッパだって、変る筈のもんじゃないと僕は思うんですがね、樹の種類は違ったって、樹は樹じゃないでしょうか。」
 と久慈は勢いに辷って、つい訊きたくもないことまで饒舌るのだった。
「それはそうだけれども、今まで合理主義で世の中が物を云って来て、どうにもならぬということを発見したのが、近代ヨーロッパの懐疑主義というもんじゃないかな。」
 と東野は、久慈の無遠慮な正直さに何か興味を感じたらしい眼つきで云った。
「しかし、それじゃ、僕らは何も出来ないじゃないですか。結局暴力でもそのまま認めなくちゃならなくなってしまうでしょう。」
「まア君のように云ってしまえば話は早分りで良いけれども、しかし、知識というものは合理主義から、もう放れたものの総称をいうのですからね。暴力なんてものを批判するには、手ごろな簡便主義でも結構でしょう。」
「つまり、それじゃ、ニヒリズムというわけなんですか。」
 と久慈は当の脱れた失望した顔つきに戻って顎を撫でた。
「あなたは御婦人づれじゃありませんか。今日はそんなところで良いでしょう。」
 久慈は大きな声で笑うと、
「どうも、失礼しました。じゃ行こうか。」
 と矢代に云って立ち上った。食事には丁度良い時間だったので矢代も一緒に立って皆と出たが、歩きながら彼は、
「今日は君も東野氏にやられたね。たしかに君の面丁割れてるぞ。」
 と愉快そうに久慈の顔を覗き込んだ。
「ふん、合理主義を認めん作家なんか、何を書こうと知れてら。」
「いや、十目の見るところ君の負けだ。愉快愉快。」
 と矢代はまた云って笑った。
「じゃ君は、人間が今まで支えて来た一番美しいものを、みな捨ててしまえと、まだ云うのか。」
「あら、雪だわ。」
 急に千鶴子は立ち停ると腕にかかった花弁のようなものに驚きの声を上げた。
 雪か。いや花だろう。と
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