、間違いに見えるだけだと云うのだよ。僕は君より、もっと科学主義者だと思えばこそ、君のように安っぽく科学科学といいたくないだけだ。君は科学というものは、近代の神様だということを知らんのだよ。それが分れば人間は死んでしまう。」
「ふん、そんな、科学主義あるかね。」
 外っ方を向くと、そのまま何も云わなくなった久慈の顎から耳へかけて筋肉が絶えずびくびくと動いていた。
「随分お変りになったのね。毎日パリでそんなことばかり云い合いしてらしたの。」
 と千鶴子はおかしそうににこにこして矢代に訊ねた。
「まア、そうです。ここじゃ、こんな喧嘩は楽しみみたいなものですから、気にしないで下さい。いつでもです。」
「じゃ、これからあたし、毎日そんなことばかり伺わなくちゃならないのかしら。いやだわね。」
 と千鶴子は眉をひそめ窓の外の市中を眺めた。
「あなたがいらっしゃれば、云わないような工夫をしますよ。」
「いや云うとも。」
 と久慈はまだ腹立たしさの消えぬ口吻で何事か云いたげだった。


 千鶴子には日のよくあたる部屋をと思って、矢代はルクサンブールの公園の端にあるホテルを選んでおいたが、それが千鶴子にはひどく気に入った。
 千鶴子の部屋は壁一面に薔薇の模様のある六階の一室だった。窓を開けると、公園から続いて来ているマロニエの並木が、若葉の海のように眼下いっぱいに拡って見えた。その向うにパンテオンの塔と気象台の塔とが霞んでいる。
「この木の並木は藤村が毎日楽しんで来たという有名なあの並木ですよ。あれからもう二十年もたっていますから、そのときから見れば、随分この木は大きくなっている筈ですよ。」
 と矢代は説明して、
「このすぐ横にリラというカフェーがありますよ。ここへも藤村が毎日行ったということですから、ひょっとすると、このホテルは藤村のいたホテルかもしれませんよ。」
「じゃ、リラへ行ってみたいわ。」
 と千鶴子は嬉しそうに窓から右の方を覗いてみて云った。荷物の整理と云っても何もないので、三人はすぐホテルを出ると夕食までルクサンブールを散歩しようということになった。
「でも、あたし、さきにリラへ行きたいわ。」

「もうリラなんか昔語りでつまらんですよ。あそこは老人ばかりで、集ってるものが皆ぶつぶつ云ってるだけだ。」
 久慈はそう云うとひとりマロニエの並木の下へさっさと這入っていった。枝を刈り込んだ並木の姿は下から仰ぐと、若葉を連ねた長い廻廊のように見えた。その中央に、跳り上る逞しい八頭の馬を御した女神の彫像が噴水の中に立っていて、なだらかな美しい肩の上に夥しい鳩の糞が垂れていた。
「君、もう帰らないといけないじゃないか。アンリエットが六時に行くと云ったぞ。」
 と久慈は矢代に云って時計を出した。
「あ、そうだ。しかし、あれは僕をからかったんだよ、来るものか。」
 矢代は忘れていたアンリエットとの時間を思い出したが、もう暫くは千鶴子と一緒にいたいと思った。
「いや、それや駄目だ。フランス人は時間を間違うことは絶対にないよ。もしそのときこちらが一分でも間違ったら、もう交渉はぴたりと停ったことになるんだからね。日本とそこは心理的に違うんだよ。」
 この日に限って強いて、アンリエットを押しつけるようにしたがる久慈だったが、それも自分をからかうには手ごろな面白さなのだろうと矢代は思った。
「しかし、パリの女と二人きりになるのは不便だね。何も云うことないじゃないか。君は初め何んと云ったんだ?」
「日本のことでも話せばいいさ。君の得意なところを一席やれよ。」
 矢代は夕食の時間と場所とを打ち合せて二人と別れ自分のホテルへ戻っていった。

 アンリエットが矢代のところへ来たのは約束の六時であった。彼女は部屋へ這入って来るとすぐ握手をして、
「今日はブールジェへいらしったの。」とフランス語で訊ねた。
「行きました。」
 と矢代が日本語で答えると、いや今日からは日本語じゃいけない、この時間は勉強ですものとアンリエットは云って、矢代のフランス語の答えを待った。冗談のつもりで語学教師として彼女を廻して貰いたいとうっかり久慈に頼んだのに、それに早くも手元へ辷り込んで来たアンリエットであった。
「ブールジェへ行きましたよ。千鶴子さんは久慈とルクサンブールを歩いています。」
 と矢代は幾らかからかい気味になり、ぼつぼつした下手いフランス語で答えた。
「そう。あなたはわたしを待って下すったのね。有り難う。」
 アンリエットは見たところ目立った美人とは云えなかったが、ふとかすめ去る瞬間の笑顔に忘れ難ない美しさが揃った歯を中心にして現れた。
「久慈君はあなたに逢えば、日本のことを話せと云うんですが、日本のことをあなたはそんなに知りたいですか。」
「ええ、それや知りたいわ。あたし、日本
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