と、必ず誰も失敗するものですから、云いたくとも僕にも云えないのですよ。僕は世の中の人間で道徳というものを間違えずに説明できた人は、まだ誰一人もいないのだと思うようにまでなっているのです。そのくせ、誰も彼も道徳だけは、道だ道だとばかりで、未知なことにして置きたいんじゃないかと思うんですが、甚だ僕の考えは極端なんですけれども、これはさっきも宇佐美さんの仰言ったように、それは事実だと思うんです。」
 矢代は定めし多くの異論が出ることだろうと予期しながら、もう裸体で人人の前へ飛び出すようにそう云ってしまった。遊部は矢代の云うのを聞きつつ、ときどきぴくぴくと眉を跳ねてはまた冷笑を洩して黙っていたが、やはり彼が真っ先に口を切った。
「しかし、科学を信用しないって、どういうものですかね。自然の合目的性を認めることが神を認める唯一の方法だと発見したのは、科学の何よりの信用し得べきところで、またそれが人間というものの価値の大きさを実証してみせてくれたんじゃありませんか。」
「僕は神というものは、そういう合目的なものだとは思えないのですよ。」と矢代は府向いたまま小さな声で云った。
「それなら何んです。」
 矢代は答えるのがもう辛かった。それは別に答えに窮したわけではなかったが、卓の一端には、自分の信じている神とは違う神を信仰している千鶴子や塩野たちのいるのを思うと、ただ黙って笑うより法がなかった。もしこれ以上に自分が言葉を云えば、二人のみならず、その他の客の首を絞めつけてゆくことになるかも知れない惧れを感じたからだったが、しかし、何故ともなく矢代はこのときから悲しみを感じて来た。矢代の返事を待っていた遊部は、いつまでも黙っている彼の躊躇に意外に早く勝ちすぎた遠慮のある思いで、ナイフを取り上げると端正に鮭の肉をすっと切った。そして、まだ惰力で少し云いつづけ、ピューリタニズムの精神とニュートンとの合致を説明してから、静に矢代に止めを刺すようにこう云った。
「僕はやはり科学の合目的性を信じるんですよ。世界の人間の一番共感出来ることといえば、いろいろな国の特殊性という変容したものの中から、普遍性を抽き出して、これを認め合うということよりないですからね。僕は神というものも、それよりもう感じることが出来なくなっているときなんだと思うんです。」
「君の苦心してやっているのは、音楽じゃなくって、音学という学ぶ方だね。」と由吉はそろそろまた冷やかし始めて笑った。
「それはそうだ。僕は音楽を勉強しにパリへいったんだよ。」
 遊部は突嗟にそう答えたものの、しかし、どこか由吉の鋭利なひと突きには応えるものがあったと見え、びくっとした戸迷うものの薄笑いを洩して肉を食べた。
「勉強しに、パリへ行ったものはごろごろしているが、遊びに行ったのは僕と侯爵とたった二人か。これや、ちょっと気味が悪いね。侯爵、何んとか一言いいなさいよ。あなただってロンドンじゃそう道徳派でもなかったんだからなア。」
 由吉は黙っている田辺侯爵の方を顧み、誰にも通じぬ笑顔でひとりからからと高く笑った。
「僕は道徳派さ。」と侯爵は一言云ったきりやはり黙って何も云わなかった。
 矢代は侯爵夫人の美しい顔色が幾らかさッと動くのを見ると、いつか見たことのある侯爵家の先祖の壮麗な城が一瞬光を揚げて頭に泛んだ。そのとき彼は一寸千鶴子の方を眺めてみたが、千鶴子はにこにこ笑った視線を彼に向けて黙っているきりだった。

 葡萄酒に赧らんだ顔が、白い卓布の上から鮮かに顕れて来たころ食事は終った。客たちは隣室へ移っていってそこでまた雑談が始った。矢代はひとり窓の傍に立ち室内の光りを避けて庭をよく見た。中庭からつづいて来ている小松林が中央の所で、島のように盛り上りを見せていて、その水際を洗うように、白砂が箒の波目を揃え入り組んだ柔い線をよせていた。松の先がどれも牡丹刈にされたところや、下の水際に掃きよせられた枯葉の納まりが、大徳寺内の孤蓬庵の系統を引いた庭に見え、矢代はこうしているときにも京都へ早く行きたくなる誘いを感じて来るのだった。
「綺麗なお庭ですことね。」
 と、千鶴子は矢代の横へ立って来て云った。
「御馳走を頂戴して、良い庭を見せてもらって、今夜はどうもありがとう。」
「このお二階に良い陶器が沢山あるんですの。あなた御覧になりたければ、お頼みしてみましてよ。」
「それは見たいなア。」と矢代は云った。そして、ガラスに反射した室内の光りを除けるため顔を窓に近づけ、軽く片手でカーテンの天鵞絨を片よせている千鶴子から、彼は初めて、我知らず闘っていた言葉の世界と放れた地道なぬくもりを感じて来た。それはもう物いわずとも通り共同の苦労にも似ている、ひと息ごとのあわれさのようなものだった。彼は暫く皆に背を向け千鶴子と並んで立っている間
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