科学というようなものは、二十世紀でもないのに、二十世紀の西洋人の考えることを、同じように考える誤りというか、危険というか、とにかく、そういう誤差を考えに入れるべきだと仰言るわけなんでしたね。そこで、道徳は科学より上だと仰言るのは、どういう風な論理があるんですか?」
「論理というようなものはないのですよ。」と矢代は云った。
「どうして?」
 矢代は少し詰って答えかねた。自分が謙遜して論理のあるべきところをさえ、無自覚にない風を装って示したと受け取られた危険を感じたからだった。彼は顔が充血して来るのを覚えながら、同時に意外に難しい大問題を繰り拡げてしまっている現状をも意識した。実際、世界でまだ誰もが片附けかねてよたよたしている難問のあいだに、どうして論理をそこから見附け出せるか矢代には分らなかった。しかし、それにしても、とにかくこれだけは誰もが一応渡らねばならぬ橋であることは事実だった。
「私は――実は、私もそこを一番知りたいのですよ。」
 こう矢代が云ったとき、不意に脱された拍子脱けの形で皆はしんと静まった。
「しかし、あなたはさっき、科学より道徳が上だと仰言ったではありませんか。」久木男爵は別に軽蔑した顔色ではなく、むしろ、矢代の苦渋を早や察した救助の穏かな笑顔だった。
「それはまア、そう私が思うのです。別に私は、弁解をするのじゃありませんが、論理はそこに成り立たないと思うからで、何も論理なんか成り立たなくたって、役に立つところだと見極めを付けたなら、科学のような人間の外部を調べる命令よりも、自分の心という内部の指針を示す道徳の方が上だと思ってしまっても、良いのじゃありませんかね。つまり、少し詭弁を云いますと、道徳が科学より上だと確信することが道徳だと思うのですが。」
「それはやっぱり、詭弁だなア。」と遊部が云った。
「いや、詭弁じゃないよそれは、事実さ。」と由吉が、このときは多少真面目な口吻で矢代を扶けて反駁した。
「しかし、君、道徳などというような概念に捉われずに、自然を研究してゆく科学の真の真面目さを、そういうのを道徳と見ずして、他にどんな道徳があるのかね。科学がすなわち道徳だよ。」
「そういうのは、それは非常に科学的だよ。」とまた由吉は混ぜ返した。何か彼はこの問題の落ちつかぬ性質を見抜き、さきから揉み消す運動を繰り返している自分の努力も知らぬ遊部に、幾らか腹立たしさを感じて来ている風だった。しかし、久木男爵はこの由吉の邪魔する態度に、また一方ますますいら立ちを感じるらしかった。
「どうもあなたも、東野君のように、議論を脱線させる名人らしい方ですね。私はしかし、科学のはしくれをやっているものですから、このお若い方たちの問題には非常に興味を感じるんですよ。私はいつも自分の工場の技師長たちには、君らは第六感を働かせないと不可ない、しかし、第六感だけでは駄目で、それを論理的に整理をしなければ不可ない、とこうまア訓辞を与えているんですが、科学と道徳ということはまだあまり云ったことはないので、甚だ私には面白いのです。どうです。それからのあなたのお説は?」と久木男爵は矢代の方に向き返ってなお彼の話を引き出そうと試みるのだった。老人というものはこんな議論に興味を覚えないのが通例であるのに、不思議と誰よりこの老人は熱心で真面目だった。矢代はこの夜は前から、科学とか道徳とか、とこんな形而上の問題から遠ざかっていたいが本心で、老人から問われるときにも、自然と話を丸く納め切り上げる工夫へ傾きつつ答えていたのだったが、それも次第にこのように追い詰められて来ては、身の動かぬ思いでもう苦しかった。
「私はパリにいたときも、友人と今夜のような問題で、いつも喧嘩ばかりしていたのですが、どうも日本へ帰ると、向うで血眼になって争っていたことも、だんだんつまらなく思えて来て、何んだか議論をするのが嫌になっているんです。何んと云いますか、皆さんどなたも御経験お有りの方ばかりのようですが、西洋へ一歩上陸すると、思いがけなく、これは戦場へ来たぞと思いますね。たしか私らにはあれはまだ見たこともない戦場でしたから、初めは何が敵だか分らぬながらも、とにかく、敵の真ッただ中にいるんだということだけははっきり感じますから、言葉を一つ違えると、味方も敵に見えてしまって、随分負傷をしたり、死んだりするでしょう。恐らく僕は無事に帰って来た人はいないんじゃないかと思うんですが、しかし、僕はやっと無難か、無能か、ともかく帰れたというのも、その原因は科学を自分が信用していなかったからだと、このごろになって思うんです。その代りに、僕は道徳だけに獅噛みついて、これさえあれば、後は何も人間には要らぬものだと思ったのです。それならその道徳とは何んだろうということですが、これは口に出して説明する
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