も、自分のいう真意の通じる範囲は、この広い世の中でただ千鶴子にだけかもしれないと思った。しかし、また彼は、さっき自分の云いたかったことを邪魔したものは、他ならぬこの千鶴子の神妙にひかえていた姿だったと思うと、見事に自分が遊部から最後の止めを刺されたのも、つまりは、千鶴子と自分のちぐはぐな信仰の揃わぬ結果からだったと思った。そうして、そんな不満足な寂しむ思いのつづくのも、まだ以後も同様に幾度かこうして繰り返されるにちがいない。
「ちょっと、矢代さん、こちらへいらっしゃいよ。そこへおかけなさい。」
矢代が室内を振り向いたとき、よく変化する優しい笑顔で手招きして、こう云った人は久木男爵だった。自分のことをさきから気にかけていてくれた人は、他人の中ではやはりこの人だったのかと、たとい向うは知らずとも、まだ父から繋がる不思議な縁も感じられ、彼は男爵の方へよっていった。しかし、円陣を造って並んでいる皆のものから少し跳び出た所の椅子へふとかけたせいで、急に光りを四方から受け集めた気詰りを覚え、手持ち無沙汰な顔つきであたりを見廻しているだけだった。が、ふとその夜の査問の内容に気がつくと、矢代はいよいよ被告の席へ引き出された羽目となっている自分の現状に、迂濶に食堂で道徳のことなど饒舌って自己弁護に落ちた報いが、とうとうこのような結果になったと観念もするのだった。
由吉と外交官の速水は傍で国際情勢の談をしていた。その会話の流れはときどき一同の間で、経済のことにも及ぶことがあっても、久木男爵だけは、自分の一番明るいその方の話には飽き飽きしていると見え一言も加わろうとしなかった。そして、その間斜めに体を崩し、天井を仰ぎつつ煙草をひとりぷかぷか喫して黙りつづけていたが、また矢代の方へのり出して来るとこう云った。
「あなたのさっきのお話、あれはなかなか面白かったですが、あの続きをも少ししてくれませんかね。わたしは近ごろそういう風な話からあんまり遠ざかっているので、こういう機会でもないとお話も出来ないのですよ。」
矢代は特別なことを前から話したわけではない自分を思い出し自分の話のどこがこの老人の気に向いたのかと一寸考えるのだった。
「僕のお話ししましたことは、そう特殊なことじゃありませんでしたが、とにかく、僕らの時代のこととしてもそれ相当のやはり考え方があるものですから、ついそれを話したい対象を探すのですね。たとえば、僕は一寸ばかし海を越えて西洋を見て来たばかりに、日本をめぐっている海の水を見ると、どれもみな岸べに打ちつけて来ているキリスト教の波に見えるのです。実際、日本を一歩出ると、現在生きている文明の波というものは、キリスト教を中心とした大海の波ですから、これに対する態度を定めるだけでも、相当な覚悟なしにはいられないときになって来ておりましょう。そこへまた科学です。僕らは自分の国のことを外国のこととして、もうこれ以上は考えているわけにはいきませんですからね。」
矢代はこう云ううちにも話していることが、久木男爵に向うより、ともすると後方で聞いているにちがいない千鶴子に意識が向いてゆくのを覚えるのだった。そして、それはまた同時に彼女を虐めることとはいえ、それ以上に苦しいことには、この夜はカソリックの大本山のノートル・ダムを写した塩野の写真展の祝賀会であってみれば、むしろ千鶴子より塩野の祝賀の宴を強く射る失礼な結果となっていることに気がついて不用意な失言を、そのまま続ける勇気が出ず突然彼は口を閉じた。久木男爵も敏感にそれと察したらしかった。
「やはりわれわれに難しいのは、科学のことだなア。」とひとり老人は呟いて、そして暫くしてからまた矢代に、「あなたはさっき自分らの考えている東洋と西洋とのことは、十四五世紀の問題として見ると、そんなにあの部屋で仰言ったが、あれはどういうことです。あれが一寸分らなかった。」
「そこが僕にも難しいのですが、しかし、こういう人がいるのです。それはラフカディオ・ヘルンというギリシア人で、明治も晩年の三十七八年ごろに、日本の現在を社会進化の状態として見ると、キリスト誕生前四五百年のころの西洋と同じだと云っているのです。ヘルンが死んでからおよそ四十年近くにもなっていますが、この間の日本の四十年は西洋の千年ぐらいの経過にあたっていると、僕はまア仮定して云ったのです。しかし、そうしてみても、僕らにとってはまだキリストは生れていないわけですよ。」
一同は急に笑い出したがすぐまた一種くすぐったそうな薄笑いで黙った。
「しかし、キリスト教が現在日本にもあるというわけは、やはり生れているのも同じでしよう。」
と、そう云ったのは遊部だった。しかし、速水は日ごろの自分の考えに何事か触れるものがあるらしく、
「それはただ過去のキリストの形骸を
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