フランスにいたとき、日本に心酔してさんざ笑われたよ。どうも日本が好きになって困ったね。向うにいる日本のインテリは、日本の内地にいるインテリなんか、知識階級だとは全然思っちゃいないんだよ。よくしたもので、そう思われると、何んとなく自分も、自分を知識階級だと思わなくなるもんだね。」
田村は何か云いかけたが、眼鏡の底からただ細かく眼を光らせただけで黙っていた。ふと矢代は田村を見ると、彼の洋服姿がフランス語を習っている神官に見えて来た。
「実際おかしなものだ。まア誰も彼も、遊ぶときまで論理論理と云ってるよ。僕はまるで論理の景色を見に行ったようなものさ。世界の人間がこんなになってしまえば、何んか起るぞ今に。」
「まア、僕はフランスを見ないから何んとも云えないがね。しかしそれはそうだろうな。」
「見たって云えないよ。――とにかく、僕は何も、どこの国に心酔して行ったというわけでもなし、特にフランスを見たくって行ったわけでもないが、まア、地球というものは円いものかどうかと、検しにいってみたような結果だな。しかし、たしかに地球は何んとなく円いと思ったね。」
矢代は特に謙遜や弁解を示そうとしてこんなに云ったのではなかった。振り返って旅中のことを思いめぐらす自然の言葉が、加わる疲れとともに、このように弱まって出たのであった。それは考えると物足りなく寂しかったが、そうかといって、この夜も昼もフランスでなくては納まらぬ田村の前で、ここのこの小料理屋の木目が、今の僕には神殿の木目の美しさに似て見えるのだと云ったなら、この田村は何んとふれ廻って歩くことだろうと、云いたいことも、一途に彼は抑え慎しむことに努力した。
「絵は見たか?」とまた田村は、何よりそこを自分は一番希んでいるのだと云いたげな様子で訊ねた。
「見た。」と一こと云うと矢代は黙った。
「どうだった絵は?」
「意外に下手な絵の多いのにびっくりしたね。」
「そうだろうな。」
田村は、お前のことならと云う意味も含めて、もし自分ならと、云いたいところも、歯痒ゆそうに微笑にまぎらせて、その口に猪口をあてた。矢代はこれから会うものごとに、みな誰も田村のように同情を自分に示すさまがありありと感じられ、自分にとって一番難しいのは、何んといっても日本の内部のこの外国語を習っている神官たちだと、直覚するのだった。そして、それも所詮は他人のことではなく、自分自身のことだった。ああ、自分のことだ、みんな。――これは難しい、実に云いがたく難しい、実生活の犇めきよせた世界の中へいよいよ自分も帰って来たものだと思った。
窓から外に眼を向けると、泡を集めたようにどろりとしたメタン瓦斯《ガス》の漂う運河をへだて、互に肩を凭り合せて傾いた木造の危険な家並のところどころに、灯火を透した蚊帳の青さが、夏の名残りを見せていた。矢代はふと、大理石に囲まれたベニスの運河を思い出し、セーヌ河の重厚な欄壁の間を流れる水を思い泛べた。そして、暫くはあの河、この水と思うまにまに泛んで来る海港や、ロザンヌ、フロウレンスと連って来る、水上の灯火がしだいに幻のように閃きわたって来るに随い、も早や異国の匂いの脱けきれぬ自分の身の漂いを感じ、旅の愁いはこうしてこれから行く先ざきの自分に、深まり続いてゆくのみであろうか、もうこれは、自分からは取り去ることは出来ないのだろうか、と歎いた。
その夜、矢代は帰りのタクシで千鶴子の家の方を是非廻ってみたくなった。店が日本橋にあり本宅が目黒と聞いていたから、目黒の方なら廻りもそんなに遠くはなかった。しかし、彼は車の中で、もう会うまいと決めていた千鶴子に、着いたこの夜、会わずにいられぬ自分が寂しかった。いつかは耐えきれぬものであるなら、明日か明後日を待つのも良いと思われるのに、この夜でなければ明日もないと思うのが寂しかった。そして、「追えども去らぬ夢幻し」と悩んだ古人の呟きが、彼の口から自然に出た。
運転手に教えた番地も近よって来ると速力も鈍った。大きな樹木の立ち並んでいる屋敷街は、どの家も鈍い灯だけ残してみな門を閉めていた。幾曲りも同じような小路を折れて入る中に交番があった。運転手にそこで千鶴子の家の「宇佐見」の名を訊かせてみると、尋ねる家はもうよほど近づいていた。彼は曲り角で車を待たせて歩いた。幹の中ほどから二つに分れた椎の大木が、道路の中央にただ一本立ちはだかっていて、そこを折れると、両側に長くつづいた練塀に狭められ、あたりは一層暗くなった。どの家の塀の中からも大樹が覗いていて、樹の香が鼻を透して来た。矢代は闇の中を歩いているうちに、車を降りたときの胸騒ぎがしだいに無くなるのを感じた。千鶴子の家を見つけても今ごろから中へは入れぬ事情だったが、今はただ見て置けばそれで良いと思った。彼は云われたまま眼で追って
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