隅隅の清らかさを想像して、自然にそこから生れて来た肉体や、建物や食物の好みが、およそ他の国のものとは違う、緻密な感覚で清められて来たことなど、瞬間のうちに彼には頷けた。しかし、今は矢代はそんなことも、特に考えようとしたのではなかった。
 もう街は遅くなっていたので人通りも少く、電灯も暗かった。彼は寿司屋を出てから、行きつけのおでん屋の方へ歩いてみた。日本を出発する前にいつも歩いた自分のコースを、またそのように歩いてみたくなったのだが、歩きながら彼は、これからの来る日も来る日も、こうして自分は同じ所を歩き、一生を過すのかもしれぬと思った。すると矢代は今までとは打って変って、急にぐらりと悲しくなった。今までの旅中はある街に着いても、二たびここを見ることもなく、明日は旅立って行くのだと思ったのに、今はそうではなかった。もうここは旅の納めで明日からここを動かぬのだった。ここは自分の生れ出た土地で、墳墓の地だと思い、いつの間にか人は識らずに自分の屍を埋める場所を、こんなに探し廻っているのだと思った。その過ぎた月日の物思いも、停ってみれば、停ったところからまた、月日がめぐってゆくのであろう。そう思うと、風の消えた湿った裏小路に踏みつけられた紙屑も、はッと眼差を合せたものの歓びに似て見えたりした。
 実際一つ一つのものが今の矢代には意味があった。そうしておでん屋の前まで来たとき、彼は何げなく敷居を跨ごうとした足を思わずまた引っ込めた。入口の敷居の土の上に、一握りの盛り塩が円錐形の姿を崩さず、鮮やかな形で眼についたからだった。「おや、こんなものがあったのだ。」と彼は思った。いつも人に跨がれ、踏みつけられたりしていたその塩であった。それが闇の中から、不意に合掌した祈りの姿で迎えてくれていたのだ。物いわないその清楚な慰めには、初めて彼も長途の旅を終えた感動を覚えた。彼は襟を正して黙礼しつつ敷居を跨いだ。跨ぐズボンの股間から純白のいぶきが胸に噴き上り、粛然とした慎しみで、矢代は鼻孔が頭の頂きまで澄み透るように感じた。彼は思いがけないこの清めに体中のねばりが溶け流れた。彼は中へ這入ってから、杉の板壁に背をよせかけても、それからはもう、杉の柾目が神殿の木目に顕われた歳月の厳しさや、和らぎに見えるのだった。人は知らず、これはただならぬ国へ帰って来たものだと、彼は暫く親しい主婦に銚子も頼めなかった。
 客は矢代の他に二人よりいなかった。二人の客はそれぞれ別の客だったが、一人は前からここでよく顔を合す常客で、他の一人は、腰かけたまま床下に俯向いていて、今にも吐きそうな苦しげな姿勢をしていた。鈍い電灯の下でその腰折れ客はときどき咽喉を鳴らした。
 矢代は見ていても別に二人の姿が気にかからなかった。板壁に人の凭りかかった油の痕跡が、黝ずんだ影法師となって泛んでいた。彼はその中の一つにも自分の油が滲みついているのを感じた。そして、あれが日本を発つ前の、自分の痛苦懊悩の日日の印刻かと思って懐しかった。彼は指頭で油の影を撫でてみた。
 そのうちにまた別の新客が一人、〆縄のような縄暖簾を額で裂いて顕われて、「やア。珍らしい人だね。」と矢代に声をかけた。それも常客の一人で、矢代の知人の田村という美術評論家だった。
「どうだったパリは?」
 傍の椅子へよりかかって、慰安かたがた云う田村に、矢代は早速には答えかねた。
「何んだかよく分らないね。あそこはどうも、僕にはむつかしい。」
 矢代は田村の猪口を云いつけた。田村はフランス崇拝家の多い中でも少し度を越した人物で、むしろ久慈以上のところがあったから、矢代も迂濶な返事でこの夜の気持ちを壊したくはなかった。
「しかし、面白かっただろう。良いことを君はしたよ。」
「僕はフランス語がよく出来ないからね。僕のは出来ぬ面白さだ。」
 矢代は出発前に自分のフランス語の貧弱さを素直に悔い、また知人たちもひそかに彼のその労苦を憐れんでいるのを知っていたから、田村の得意なフランス語に華を与えた譲歩も、酒の場の挨拶としてはしなければならなかった。
「とにかく、フランス語の教養がなけれやね。フランスへ行ったって面白くないさ。」
 こう矢代に面と向って云った正直者の知人のいたのも彼は思い出した。そして、自分の外遊に関しては、定めし嘲笑の様子が見えぬ部面で起ったことだろうと想像もしたが、それが以後、いちいちそれに満足を与えるような結果となって来ている自分の胸中を、彼はどんな表情で示して良いか、苦しむのだった。
「僕は君らの一番いやがる人間になっているのだよ、もう訊いてくれたって駄目だよ。」
 と実は彼はこんなに皆に云いたかった。しかし、こういう云い方など、もう自分を説明する何んの役にも立たぬと知り、彼は田村の盃に黙って酒を注ぐ歎きもまた感じた。
「僕は
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