ていた自分に気がついて初めて笑った。
「あなた、暑くないの。合服なんか着て。」
矢代を見てそう云う母に、「何んだかもう分らないですよ。」と云いながら、彼は、春夏秋冬といってもどこのもそれぞれ違うのだと思ったり、東京よりもどこより先ず帰れば温泉へ行きたいと、パリで友人らと話したことを思い出したりした。しかし、こうして帰ってみれば、やはりどこより彼は東京が懐しかった。東京のどんな所が面白いのか分らなかったが、この地が間違いなく東京だと思うことで、彼は心が落ちつけるのだった。車が帝国ホテルの前まで来たとき、父は、
「洋行から帰ると、その晩はホテルへ泊る方が良いと人はいうが、お前すぐ家へ帰っても良いのか。」と訊ねた。
洋行と父に云われると、矢代は突然身の縮むような羞しさを覚えた。
「洋行なんて――そんな大げさなものじゃなかったなア、僕のは。」
矢代は一寸黙った。何を云おうとも、今は意味など出しようがないことばかりのように思われた。何か悲しくもあれば嬉しくもあり、どちらへ転げようとも同じな、ただ軽るがるとした気持ちだった。
「洋行というのはお父さん、あれは明治時代に云ったことですよ。」
ふとまた彼はそう云ったが、今はそんなことより急に街が見たくなった。街のどこが見たいというより、いつも見ていたあそこもここもという風に見たくなり、そして、先ず何より寿司が食べたいと思った。
「幸子はだいぶ良くなりましたよ。今夜も来たいと云ったんだけれど、また悪くなられるとね。」
と母は矢代の妹の容態のことを云った。
「良かったですよ。どうも、あれのことが気になってね。疲れが癒ったら、僕病院へ行きますよ。」
「そうしておくれ。喜ぶわ。」
「だけど、僕、何んだか一度、滝川の家へも行きたくってね。東北地方が一番見たいんですよ。」
と矢代は云った。母の実家の滝川家のある東北地方を見ることは、帰って彼のするべき計画の第一歩のように思われていたからだった。しかし、母とそんなことを話している間も、彼は父ひとりをそちらへ捨てているような自分の態度に気がついて、実はそうではない筈だのに、何ぜともなく父には、云うべきことも云いにくいことがさまざまにあるのだった。
子供の洋行を誇りとしているらしい明治時代の父に、矢代は自分の思いを伝えるには、どう云えば良かろうと咄嗟に考えたが、さきから父はただ「ふむ、ふむ。」と云うばかりで、窓から外を見て黙っていた。前に父は、自分は金を儲けたら一度だけどうしても洋行をしてくるのだと、口癖のように云っていた。その父の若いころからの唯一の念願も、それも子の矢代が父に代って、その意志を遂げて帰って来た今だった。その子の云うことが父の希いに脱れた奇妙なことを云い出したのであってみれば、父に分らぬのも尤もと云うべきであった。
「やはり時代というものは、争われずあるんですね。これで。」
矢代は有耶無耶なことを云って言葉を濁したが、洋行して来た自分よりも、子供にそれをさせることのみ専念して、身を慎しみ、生涯を貯蓄に暮しつづけた父の凡庸さが、自分よりはるかに立派な行いのように思われた。しかし、彼は父が何ぜともなく気の毒な感じがした。それはもう云いたくもない、生涯黙っていたいことの一つだった。彼は父の期待に酬いることの出来なかった辱しさを瞬間心底に感じたが、すぐまた諦め返して街の灯を見つづけた。
「ああ、しかし、いったい、何を自分はして来たのだろう。」
ふとときどきそんなに彼は思った。そして、得て来た自分の荷物を手探りかけては、いや、何もない、袋は空虚だと、足もとに投げ出す気持ちの底から、暫く忘れていた千鶴子のことが頭をかすめ通って来るのだった。
銀座裏で車を捨て矢代はひとり寿司屋を目あてに歩いた。通りや街の高い建物の迫りがまったくなかった。打ち水に濡れている暗い裏街をぬけて行く間も、彼はただ食い物を追うだけの自分を感じた。団十郎好みの褐色の暖簾の下った寿司屋へ入り、矢代は庭の隅の方に腰かけると、漆塗の黒い寿司台に電球の傘が映っていた。ジャパンという英語は漆という意味だということを、ふと矢代は思い出した。そして、黒塗に映えた鮪の鮮やかな濡れ色から視線が離れず、テーブルに凭れて初めて、彼はいつも一番舌の上に乗せたかったのは、この色だったと思った。
鮪が出たとき、彼は箸でとるより指で摘んでみたくなつてつづけて幾つも口に入れてまた皿を変えた。身体の底に重く溜ってゆく寿司の量が、争われず自分の肉となり、血となる確かな腹応えを感じさせた。下を見るとここにも、靴まで濡れそうな打ち水がしてあった。「ははア、水だな。」と彼は云った。
内庭に清水を撒く国は日本以外に見られなかったのを彼は思い出した。そして、山から谷から流れ出る、豊かな水の拭き潔めてゆくその
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