した中でも、揺れつつ肉を突き刺し巧みに口へ入れていた。総体が気忙しく立ち廻り、入り乱れているにも拘らず、それぞれ何んの間違いもなく無事安泰に流れてゆくようなその感じは、見ていても胸の空くほど凄じい勢いだった。それはもう西洋でもなければ東洋でもなかった。まさしくそれは世界で類のない一種奇妙な生の躍動そのもののような姿態だと思った。
 その夜はつづいた睡眠の不足で矢代はすぐ眠くなったが、寝台を取り忘れていたので、展望車の椅子にそのままうとうとした。彼の横にマニラから帰って来た青年が二人、十年ぶりだといって、窓から故郷の沿線の様子を楽しげに眺めていた。対い合った二人は嬉しそうに落ちつかないらしく右を見たり左を見たり、絶えずして眠らなかった。矢代にも向うから話しかけて来て、マニラの状況を報らせたり、どこから来てどこへ行くのかと訊ねたりした。矢代はシベリヤから帰って来たと答えると、シベリヤのどこかとまた訊ねた。乗車したのはベルリンからだと答えると、急に二人は他人行儀な冷淡な顔つきになって窓の外を向いてしまい、それからもう話そうとしなかった。矢代はそれを機会に横になって眠った
 眼が醒めたときもう朝になっていた。窓の下に海が拡がり砂浜の上を浴衣の散歩姿が沢山あちこちに歩いていた。夾竹桃の花が海面の朝日を受けて咲き崩れている間を、よく肥えた紳士が敷島を一本口に喰わえ、煙をぱッぱと吐き流して歩いているのを見て、矢代は瞬間眼の醒めるようなショックを受けた。淡路島らしい島が薄霧の上に煙って幽かに顕れて来る。雄松の幹のうねりが強く車窓に流れていった。日本の朝の日の光りを矢代は初めて見たのである。彼は車窓から乗り出すようにして、一見したところ、自分の国は世界で一番無頓着そうににこにこした、幸福そうな国だと思った。そのうちにシベリヤ以来すっかり忘れていた合服が夏の日にだんだん暑くなって来た。



 いつも矢代の旅は目的地へ着くころになると夜が来た。東京駅へ近づいて来たときもそうだった。故郷へ帰りついたと思う気持ちは、山陽線から東海道を上って来る車中の憶いの中に吸われてしまい、今は身心とも彼は疲れ果てていた。物音らしいものは耳鳴りで聞えず、かすめ通る灯火の綾の間に見えたホームの荷造の藁束が、いよいよ身近なものの匂いを伝えて迫って来る。継ぎはぎだらけの襯衣を着せられても苦にならぬ、里帰りの子のように疲れが気持ち良かった。
 汽車が停って矢代はホームへ降りた。最後の車のため人込みから離れた端れの柱の傍で、夏羽織の背の低い父の姿がすぐ彼の眼についた。父は暫く矢代を見つけなかったが、彼の方から片手を上げて父の方へ歩いてゆくと、父は「あッ」と口を開き、そのまま無表情な顔で近よって来た。その後から見えなかった母が小趨《こばし》りに追って来た。矢代は父の前で黙ってお辞儀を一度した。非常に鄭重なお辞儀をしたつもりだったのに、妙に腰が曲らず軽くただ頭を下げただけのような姿になった。
「どうも御心配かけました。」
 と矢代は父の後ろの母を見て云った。
「お帰りなさい。」
 母は矢代の顔を見ず羞しそうにそう云っただけで、重ねた両手を中に縮まるような姿で立っていた。父も母もさて次ぎにどうして良いのか分らぬらしく動かなかったが、矢代もやはりそのままだった。その間も東京駅の光景が薄霧の中から、見覚えのある活気を漸次鮮明に泛べて来た。赤帽が荷物を運んで行く後から三人はホームを出た。矢代は靴でしっかり歩いている筈なのに、まるで地から足が浮き上り、身体が絶えず飛び歩いているように思われた。障壁が尽く取り脱された自由な気持ちに、彼は自分がひらひら舞っている蝶に似て見え、眼につくあの灯この灯と広場の明りを眺めながらまたタクシを待った。
「とにかく分ったぞ。何んだかしら分った。」
 と彼はひとり呟いた。そのくせ何が分ったのか考えもしなかったが、もう考えずとも、証明を終えた答案から離れたような身軽さで、後を振り返る気持ちはさらになかった。
「何んか僕食べたいのですよ。お寿司がどうも食べたいなア。一寸お母さんさきに帰ってくれませんか。」
 矢代は母にそう云ってタクシに乗り込み途中で自分一人だけ銀座で降りるつもりだった。銀座の方へ動き出した車の中で、彼は、今は勝手気ままの云える子供の自分を、仕合せこの上もないことだと思った。母の縮みの襟もとが清潔な厳しさで身を包んでいる夏姿へ、彼は凭りかかるように反り、自分の永らく忘れていたのは、この母と父との労苦だったとふと思ったが、それも今は自分の身の疲れと同じように感じられた。
「もうじき涼しくなるが、まだ暑さは相当つづくね。」始終黙っていた父は誰にともなく一言云った。
「そうだ。まだ夏なんだな。」と矢代は呟くように云った。そして、季節のことなどすっかり忘れ
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