、職業の差別など全然消えて人間だけが直接話しよる魅力を強く感じた。
「じゃ、宿屋お世話して下さい。一時間でも眠られれば有りがたいな。」
「そうなさいよ。ここは良い宿屋はありませんが、まア休むだけなら沢山ありますから。」
 二人がこんな話をしているうちに荷物の検閲が始まった。ここでは所持金を検べなかったが、荷物の中味の検査はソビエット側よりも厳格で時間がかかった。南は矢代からずっと離れたところでA社の人たちに取り包まれ旅中の事など話していた。矢代の傍には特高課の今井がただ一人附き添っていてくれるだけだった。
 検査を済ませて外へ出たときはもう夜が明けていた。矢代は朝の日光に眼を細めて、レールを跨いだ。初めて見る日の光りのように爽快だった。彼は呼吸を大きくしながらあたりを眺めて歩いた。樹木の一本もない平原の胸の起伏が波頭のように続いていて、その高まった酒色の襞のどこからも日が射し昇っているように明るかった。短い草の背がハレーションを起しているらしい。一望遮るもののない平原のその明るさに囲まれた中で、街がまだ戸を閉めて眠っていた。刑事の今井は矢代の荷物を持ってやろうといって聞かず、「よろしよ、よろしよ。」と云って重い方を奪うように携げると、ステッキを地に引き摺って、人のいない通りを先に立った。
「実に美しい所だなア。」
 と矢代はときどき立ち停り周囲の平原の波を見ながら呟いた。先に歩いていた今井はその度びに矢代の傍まで戻って来て、賞められたことが嬉しいらしく彼も一緒に並んで平原を眺めた。乳房の高まりの連ったような地の起伏が、空に羞らう表情を失わず、嬉嬉として戯れ翻っている賑やかな嬌態で、見れば見るほど平原の美しさが増して来た。
「いつも見てると分りませんが、万ざら捨てたもんでもないでしょう。」と今井は謙遜に云ってまた先に立った。
「いや、たしかに美しい所ですよ。一寸類がありませんね。」
 矢代は疲れも忘れ宿舎へ行くのも惜しまれたほどだった。それも周囲のどちらを見ても美しさは変らなかった。人工の極致とも見える繊細な柔かさで、無限の末にまで届いて祈りのような悲しみが地の一面の表情だったが、それは見ていると、また奔放自由な歓びの線にも見え、清らかな希いに満ちた明け渡っていく世界の明るさにも変って来た。矢代は国境の方の蒼く幽かに薄靄の立っているあたりを指差して、
「あのあたりがつまり、国境ですね。」と訊ねた。
「まア、国境というのですがね。どこからどこが国境だか誰にも分りませんよ。それにどういうものですか、ここでは自殺をするものが多いのですが、不思議ですね。」
 永らくここで暮していても、それだけが分らぬという風に今井は声を落して歎じた。なるほど無理もない、ここなら死にたくなる美しさだと矢代は頷きながら宿舎のホテルへ案内されて入っていった。玄関へ顕れた女中が矢代の前にスリッパを揃えて出した。別に取り立てていうほどの婦人ではなかったが、これも矢代には初めて見る和服の日本の婦人だった。外人には見あたらぬ、特殊な皮膚の細やかな美しさが襟もとから延びているのを見て、思わず矢代はどきりとした。


 南と矢代の別れたのはハルビンの駅だった。彼は一路大連まで来てそこから飛行機で福岡まで飛ぶつもりだったのに、平壌まで来ると先きは雨がひどく不時着したので、途中から汽車に替えて海峡を渡った。彼は昼間の内地を見たいと思っていたが、下関へ上ったのは夜の一時ごろになった。東京行の出るまでには、まだ一時間半もあったので、彼は山陽ホテルで休息している間に東京の自宅へ電報を打った。そのついでに千鶴子へも打とうかと暫く茶を飲みながら考えたが、やはりそれだけは思い止まった。関門海峡の両側の灯が、あたりに人の満ち溢れている凄じさで海に迫っていた。眼にする物象が絶えず跳ね動いているような活気に矢代は人からも押され気味になり、受け答えにも窮する遅鈍なものが、いつの間にか自分になっているのを感じた。それはひどく時代の遅れた自分であり、早急の間に合いかねるその自分から錆が沁み出ているようだったが、しかし、ともかくも日本へ無事帰りついている自分であることだけはたしかだった。今はもうそのことだけで彼は嬉しく、後はどのような目に逢おうとも忍耐出来ると思い、彼は胸の中に笑いの綻ろんでいくようなゆったりとした気持ちで周囲を見廻した。人人の多くは洋服を着ていたが、どれも皆洋服のようには見えなかった。男たちは皆眼光が鋭く不意に殺到して来そうな気配の中を、婦人たちが何んの恐れげもなく歩いているのが、不思議と優雅ななまめいた魚の泳ぐ姿に見え楽しそうだった。
 上りの汽車に乗ってからも、彼は満員の食堂車へ入って見た。ナイフとフォークを使う人人の手の早さが刀を使っているようで、狭い車内の傾いて飛ぶぐらぐら
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