に注意を重ねて落ちついてみたが微笑が喰み出て来て停らなかった。
「日本は良い国ですよ。実に良い国ですよ。」
こんな風に触れ込みつつ今自分が馳け込んでいるときだと彼は思った。しかし何んといおうともうすぐ着くのだった。手がさきに向うへ飛んで行き、足が飛び、頭が飛び出して、残っているのはただ胸だけのような気持ちがした。何か日の目を見に世の中へ生れて出て行くときが、丁度こんなものかもしれないと矢代は思った。胸の中でごうごうと水の流れる音がしていて、南が何んとか云っているようだったがよく彼には分らなかった。どこからともなく押しよせて来始めた熱気のほとぼりに似たものが、面にあたって来るようだった。それは何んとも云い様のない気忙しさだったが、急に息苦しい空気が狭い廊下から部屋に入って来たかと思うと、沢山な日本人が並んでどやどや廊下を歩いて来た。いつの間にか列車が満洲里に着いて停っていたのである。
矢代は腰が上らなかった。混雑して曇って見える廊下の方を向いたまま暫く彼は動かずにきょとんとしていた。すると、彼の名を高く呼びながら各部屋を覗いて来るらしい声が聞えた。
「矢代耕一郎さんいませんかア――矢代耕一郎さアん――」
その声はだんだん矢代の方へ近よって来ると、円顔の眼の脹れぼったい頑強そうな青年が、部屋の入口から矢代を覗き込んでまた呼んだ。
「僕です。」と矢代は答えた。
「あなたですか矢代さん、フィルムありますか。」
といきなりその青年はむっつりした顔で畳み込むように訊ねた。生れたばかりのような期待に胸がまだどきどきしていたときだったので、矢代はこの青年の失礼な云い方に拍子抜けがして、
「持ってますよ。」と一言答えた。
「じゃ、それ貰おうじゃないか。」
と早速青年は不躾けに云って手を出した。
これが最初に会った日本人だったのか、とふとそう思うと、矢代は張り詰めていた喜びも急に堪え難い悲しさに変った。
「僕のフィルムは大切な預り物だから、君には渡せないね。誰です君は?」
矢代はもうこの男には絶対フィルムは渡さないと思った。彼はもう車から降りるのもいやになり腰を上げなかった。すると、その青年の肩を掻き除けるようにして、痩せた眼の大きい美しい別の青年が後から顕れ、矢代に鄭重にお辞儀をした。
「私はハイラルのT社のものですが、この人は今日一寸手伝いに頼んだ人です。遠い所をたいへん御苦労でございました。今日は大雨が降りましたものですから、ハイラルの飛行機が出ませんので、この人を頼んだのです。どうぞフィルムを下さいませんでしょうか。」
なるほど、この青年でこそ自分の念い描いていた日本人だと矢代は思った。彼はまた急に嬉しくなって来た。
「そうですか、雨ですかこれで、僕はまだ汽車が動いているような気持ちなものだから、――じゃ、これをどうぞ。」
矢代は横に用意してあったフィルムの円鑵を青年に手渡した。誰もそれぞれ何をしているのか分らない泡立たしいときだったので、南はと思って見ると、彼もA社の人に引き立てられ廊下の方へ出て行くところだった。
矢代は荷物を下げ、フィルムを持った青年に守られてプラットへ降りて行きながらも、前の円顔の青年の顔が見えると少し気の毒な気がして来た。待合室でも荷物の検査があったから、審査の始まるまで待っていなければならなかった。大連行の次ぎの汽車の出るまでまだ八時間も間があるとのことだった。ソビエット側の国境の駅とは違い、こちらの待合室は天井も高く、コンクリートの巌丈さで近代的な感じだったが、大きな包みを抱えて眠っている中国人の群衆の間から蠅が群り立ち、電灯の周囲を飛んでいるのが、先ずひと目で受けたヨーロッパとは違った間延びのした東洋の表情だった。矢代は検査の始まるまで広い待合室を眺めて立っていた。一緒の汽車で来た外人たちは睡眠の不足で元気のない顔つきだった。それにしてもこの汚い包みを抱え蠅の中でい眠っている群衆が地球の大半を埋めているのだと思うと、それを見て来た矢代は、今さら世界の上に蠅につき纏われた宿命の人種の多いのに驚いた。それは東洋のほとんど皆の国がそうだった。
この皆の国から蠅を追い払う努力だけでも、人人のこれからの役目は大変な力が要ると矢代は思った。
「私は警察の者ですが、今夜はこれからどうされます。」
と、私服の眼鏡をかけた背の高い日本人が、矢代に今井と書いた名刺を出して訊ねた。矢代は別にどこへ行く考えもなく汽車を待つだけと答えた。
「じゃ、まだ八時間もありますよ。何んなら宿屋をお世話しますから、そこで休んで行かれたらどうです。まだこれからならひと眠り出来ますよ。」
矢代はこの特高課の今井の職責上の目的のことなど今は考えてはいられなかった。それよりも、話しかけてくれる日本人を見るとただ誰でも懐しくなり
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