それは日本金ですから記入の必要がないと思って、大切に大切に仕舞っといたものです。どうぞ返して下さい。どうぞ、どうぞ。」
 外交官は手をだんだん紙幣の方へ延ばし優しい声で歎願した。
「駄目です。」
「どうぞ、どうぞ。」とドイツ人はまた繰り返して迫った。
「東京滞在は幾日間ですか。」と検査官が訊ねた。
「二週間です。」
「じゃ、帰りにここを通られるとき、お返ししましよう。」
 外交官の歎願の様子が次第に嶮しい表情に変って黙ってしまった。すると、突然胸をぐっと反らしたと思うと、固めた拳で卓をどんと叩いた。
「じゃ、もう要らない。覚えているが良い。このお礼は必ずして見せる。」
 ねばりのある高い声で畳み込むように云い捨てているドイツ人の言葉を、若い検査官はもう相手にしていない様子だった。ソビエットとドイツの国交の険悪になっているときである。規則を守った検査官は正しかったとはいえ、見せずに済ませば済んだ金を正直に示して奪われたドイツ人の怒りもまた正しかった。時と場合の心情の酌量不足が及ぼした争いは、もうこのときから、個人のことではなくなっていくにちがいなかった。
 検閲を済ませたものから順次に、荷物を下げて列車の中へ入っていくので、矢代は南と一緒に自分の部屋へ戻っていった。
「やれやれ、ひどい目にあった。まさか双眼鏡が、あんな所から飛び出そうとは思わなかった。うっかりしてた。」
 南はもう一度荷物を開けて中から双眼鏡を取り出すと、こ奴かびっくりさせたのは、と云いたげなにたりとした表情で弄《いじ》ってみていた。
「しかし、よくまア赦しましたね。あなたの顔が物を云ったのですよ。あのときはね。」矢代は一寸からかってみたくなってこう云いながらも、彼の双眼鏡を覗いてみた。あのときは、一種兇悪な光りを放ってあたりを睥め廻していたレンズも、今はもうただの双眼鏡だった。
「さア、これで後一時間か。」
 南はまた上衣を脱いで寝台に横になった。矢代は疲労のためひどく空転している頭を感じた。彼は上の寝台へ上らず下で煙草を喫っていたが、もうこれで何んの心配もなくなったのだと思うと腰が容易に動かなかった。それぞれ外人たちが各部屋へ戻って来たころ荷降ろしもみな済んだと見え列車はまた動き始めた。リズムに乗った弾むような快感が一層強まるのを矢代は覚えた。しかし、後一時間で満洲里へ着くとしてもその間はどこの国のものでもない所だった。一時間といえば五里ほどの間であるが、名もつけようのない奇妙なその五里の幅の地上は、これまでまだ一度も考えてみたこともない場所だった。それもそこを遠慮なく走り脱けることの出来る列車というものも、国際列車なればこそだった。いったい、どこの国のものでもない国際列車という抽象性を具えた列車が、どこの国でもない場所を走るという世にも稀な真空のような状態は、恐らく地球上ではこの五里の間以外にはないかもしれない、それは暗示と啓示に満ちた闇の中の一時間の筈だった。
「これは、何んとなくキリストに似ているな。」
 とまた矢代はぼんやりと考えた。マルセーユへ上陸して山上の寺院の庭へ足を踏み入れた途端、口から血を吐き流して横わっていたキリストの彫像に、ひどく驚いたときのことを矢代は思い出したりした。人はみな自分の国を持っているのに、国と国との接する運動の差の中で、生活を続けている人種のあることも考えられた。それは日本を除いた他の国のどこにも網の目のように張りめぐっていて、吐瀉、腹痛の起るのを思うと、つまりは、この国境の間の五里の空間も、それに似た未来の渦の巻き立つ場所かとも思われた。
「そうだ、もうこんな暢気なことはしていられないぞ。」
 と南は云って起き上って来た。そして、ネクタイを締め直し上衣を着て、荷物の中へ洗面の道具を詰め込んだ。車中の不便を思いベルリンから持ち込んだ角砂糖の残りも、ボーイに皆ここで遣ろうと相談して、二人は量の多少に拘泥せず一つに纏めてからボーイを呼んだ。ついぞ笑顔一つも見せず警戒ばかりに終ったボーイも、このときだけはにこりとしてすぐ上衣の下へ砂糖を隠し、聞き取れぬほど小さな声で、「サンキュウ。」と一言いうと、恐れに追われたように急いでまた姿を消した。一番角砂糖を喜ぶと聞いていたのでお礼を砂糖にしたのだったが、別れの際の笑顔はやはりどこでも気持ち良かった。
 隣室では外人たちも落ちつかぬらしく廊下へ出て来て立噺をし始めた。矢代は列車が次第に膨れてゆくように見え、身体が凄い渦の中に吸い込まれて流れるような眩暈《めま》いを感じた。絶えず潮騒に似た音が遠くから聞えて来ているくせにあたりが実に静かだった。
 しかし、何んといおうと、間もなく着くのだ。――矢代は嬉しくて堪らなかった。日本の方を向き後頭部を後の板に摺りつける風に反って腰かけながら、注意
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