そうに見える無造作な南が、必要なことだけ忘れずに覚えているのも、日本人らしいと思って感心した。
 やはり日本人はこれで良いのかもしれない。云うことがもぞもぞとして下手だったが、南がいると、車中の外人らも無事に皆おさまって来たと矢代は思った。それも特別に人の注意を牽くわけでもなく、また合理的なところもなければ鮮かな身振りもなかった。
 背が小さく出っ歯で、小肥りなうえに開けッ放した唇が厚くいつも唾で濡れていた。そのくせ父親らしい均衡があって、温和な円い眼だけが笑いを湛えているので人の集りに生ずる隙間を、誰よりも一番確実に南が満たして列車とともに流れていた。
 矢代は寝ながらも、下にいつも一緒にいた南の和らかな平凡さが、急にこのときから面白くなって来た。国境なども南のようだと取り立てて厳しくも見えず、人もまたそのまま通過を許してしまうのだろう。
 間もなく、いつ止るともなく列車が止った。あたりに駅などあろうとも思えぬほど静な闇の中だった。矢代も南もまだ寝台から降りずにいると、ボーイが来てドアを叩き、国境へ着いたから荷物を持って降りよと云った。矢代は今までの空想が全部差し迫った事実の厳しさの前で崩れるのを感じた。身支度を整え廊下へ出て行くと、隣室の外人たちもみな眠そうな顔で荷物を下げ一人ずつ車から外へ降りた。木造の低い屋根が一軒だけレールの横の窪みの中に建っていた。その屋根を踏むように見降ろしながら坂を降りて行くのに、皆の口から吐く息がもう白く眼立った。
 よく食堂で矢代と向き合った同車の静かなソビエットの士官たちは、いよいよ配備先へ着いた緊張した表情で、腰のピストルの位置をなおし、駅から闇の中へ消えていった。みなそれぞれ勤めの目的がここではすべて、日本を相手として守備につくためになされているのかと思うと、矢代は、いつも食堂で謹直だった士官の様子が、またあらためて思い出された。
 乗客らは待合室へ降りてから、手擦れて木目だけ浮き上った粗末なテーブルに荷物を乗せ、一列に並ばせられた。人のあまりいない待合室からは、外の闇ばかりが見えるだけで、鈍い電灯の周囲に薄霧がむれていた。荷物の検査はどうしたものか容易に始まりそうもなかった。合服の襟を立てたくなるほどの冷たさにときどき矢代は胴を震わせた。油の黒く滲んだ床下に麻縄が解け紊れていて、一見工場の事務室のような待合室は、ソビエットに似合わしい素朴なものだった。
 深夜のこととてどこかで眠っていたらしい検査官が、白く息を吐きながら遅れて顕れるといよいよ荷物の審査が始まった。まだ中学を出たばかりに見える若い検査官二人だったが、どちらも実直そうな好人物の相ながらも、威厳を保とうとする沈黙に努める風情が、並んでいる大人たち乗客の世ずれた表情の中で、初初しく緊って見えた。通過の荷物には白墨で強く十字のマークが打たれた。入ソのときそこの国境で、持ち込み禁止の荷物を提出し封印をされたが、旅客が途中でそれを開封し使用した形跡の有無を検べるのに手間取った。すると、南の荷物の中から封のない裸身の双眼鏡が一つ飛び出して来た。
「これは?」
 検査官の調べがそこで停頓してしまった。取り上げられた双眼鏡のレンズが二つ無気味な光りであたりを見ていた。これは双眼鏡を奪われるだけではなく南が連れ出されて行く代物だった。誰も異様な緊張で黙っている中で、南はまったく予期しなかった狼狽の色に変った。そして即座に出て来ない英語で、
「いや、これはつい忘れまして、荷物の底に入れていたものですから、――ベルリンでお土産に買ったものです。」
 と詰り詰り弁解した。誰が見ても一番疑われる器具の双眼鏡に封印し忘れた手落ちなど、手落ちとしてはあまり乱暴すぎたものだった。しかし、結局は、誰でも気がつきそうなものまで忘れた南のその頓馬《とんま》な失策が、却って逆に検査官の疑いを解いたらしかった。検査官は顔を和らげると双眼鏡まで南に返してあっけなく荷物を通してしまった。
「サンキュウ、サンキュウ。」
 相好を崩して乱された荷物をあたふたスーツに詰め込んでいる南の傍で、次ぎが矢代の番になった。彼のは異状もなくすぐ通った。その次ぎはナチスの外交官で、このときは荷物が通ったが所持金を内ポケットから見せるとき、旅券に記入のない日本の百円紙幣を二枚一緒に出して見せた。
「これは預っときます。」
 検査官は簡単に紙幣を取り上げた。これにはドイツ人も意外だったらしく、暫くぼんやりしていてから周章《あわ》てて、
「それは僕が東京へ着いてから、すぐ入用のお金です。返して下さい。」と手を差し出して云った。
「しかし、記入してありませんよ。記入のないお金はお渡し出来ない規則です。」
 検査官はもうドイツ人の顔を見ようともせず、次ぎの荷物の審査にさっさとかかりかけた。

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