行く左側の所に、趣味の良い太めの建仁寺垣を連ねた門が見えた。そこの門標にはまぎれもなく宇佐見の名がはっきり眼についた。彼は人通りの誰もない道路の中央の所に立って、光りを除け、暫く欅の一枚板の閉った門を見つめていた。葉の細かい椎と椿の大木が門の裏側に茂っていて、そこから玄関までよほどの距離の庭があるらしかった。潜戸の隙から中を覗くと、庭いちめんの白い砂が夜気を吸いあつめ、寝静った玄関をがっしりと守っていた。矢代は一見して、その単調な厳しさからカソリックの千鶴子のしつけが頷かれた。漂う和らぎは厳しさの結果から来ているらしい。整然とした規矩もあった。矢代はこれがあの自分の夢の生い育った家だったのかと思うと、まだ旅のうつろいやまぬ夢心地も、急に醒め冷えて来るのを覚えた。もし今ここへ千鶴子が顕われて来たなら、ともに異国に遊んだその姿も別人のように見えるにちがいないと思った。彼は夢の脱落してゆく下から顕われた正体に面と対った感じで、暫くはそこから動かず立っていたが、自分と千鶴子との間に立ちはだかりて二人を会わさぬものは、争われず、この欅の門扉に厳しく顕われ出ている家風だと思った。彼は待たせてあった車の方へ戻っていった。車の中でも彼は、マルセーユへ上陸した途端に、同船の男たちがいままでの千鶴子を眼中から振り落してしまったときの、一日の恐るべき変化を思い出した。あのヨーロッパへ上陸した途端に、まったく千鶴子の魅力の消え失せた日とは逆に、今は彼女に面会することさえ出来ぬこの変化は、これはいったい何んだろう。
 矢代は車のライトに照し出されては消えてゆく家家を見ながら、その一つ一つに具った家風の違いを思うと、千鶴子と結婚する無理から起って来る自分の方の両親の困難が想像された。それは絶えず千鶴子の家へ自分の両親の頭を下げさせることであった。
「洋行から帰ると、その晩はホテルで泊る方が良いというが――」
 と、こういう心配と小さな誇りを持っている父に、頭をいつも下げさせてゆく子供に自分がなることは、いわば、洋行したためばかりに起って来た悲劇であった。船で日本を離れ始めてからは、乗客たちの身分とか、財産とか、名誉とかいうものの一切は、人の頭から吹き飛んだ平等対等の旅人となっていられた。しかし、その習慣も、帰れば誰に命ぜられたものでもなく、忽ちこのような、かき消えた自然さで再びもとのわが身に還った落ちつきである。とはいえ、実はそれも自分の身分を考えず、頂きの高さで人と平等に眠っていた身が、眼を醒すと同時に、下まで墜落して行く狂めくような呆然たる静けさに、それは似たものだった。こんなことは矢代もみな想像していたことだったが、しかし、それがこれほど早く前の自分の姿を見る寂しさに変ろうとは。――
「君、日本へ帰れば、もう君と千鶴子さんとは会わないにちがいないよ。だから今のうちさ。」
 こんなに久慈が彼に奨めた日のことなども、矢代は思い出した。しかし、もしこれが自分の自然の姿であるなら、むしろ夢から早く醒めただけでも結構だと思った。たしかに、千鶴子と自分との交遊は事実あったことだったが、それも夢と等しいものだったと、思えば思い得られる自分の国の変化だった。またそれは同時に、自分自身の変化でもあるのだった。何がこのように変らしめたのか分らなかったが、パリにいたときの同じ思いを貫きつづけていても、水が氷になるように、いつの間にやら揺れ停って質の変っている自分であった。それは氷か水か、自分がどちらか分らなかったが。――


 渋谷からは路も暗かったが、ライトの中に泛き出される繁みや看板など、矢代には見覚えのものが多くなった。どれも暫く見ぬ間にひどく衰えた姿になっていた。それでも彼は窓ガラスに額をあてて、迎えてくれる風物を見逃すまいと努力した。繰り顕われては走り去るそれら一瞬の光景が、どれも鄙びた羞しさで、顔を匿して逃げ走る生き物のように見えた。溝を盛り起して道路の上まで這い繁っている夏草の一叢の所で、矢代は車を降りた。自宅の門がもうすぐそこだった。
 彼は門の引手をひき開ける手具合も、暫く不在のうち、度を忘れてつい大きな音を立てた。
 まだ母はひとり起きていた。彼は奥座敷で帰った挨拶を母にし直してから、初めて襖や天井を見廻した。廊下の方から幽かに肥料の漂って来るにおいがした。ふと彼は永く忘れていた子供のころのまま事を思い出した。柱の手擦れた汚れや、砂壁の爪の痕跡など、それぞれ自分の身を包んでいた殻のように感じられ、加わる疲れのまま見降ろしている畳目が、無きに等しい軽やかなもの思いに似て見えた。彼は母の出してくれた茶をただ今はがぶがぶ飲むばかりだった。
「へんなものだなア。お茶がうまいというのは。もう一ぱいくれませんか。」
 矢代は母に、こう云いながらも、そんなことを云
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