切さは旅人は忘れがたいものだが、南にしても、これほどにされては、自分の持ち運んでいるフィルムの性質を知られたくはないらしかった。事実自分の意図とは反対なものを運んでいる南の心中を察すると、矢代も困っている彼の様子に同情せざるを得なかった。そうかと云って、捨子のようになっているA社のフィルムを見ては、それもまた気にかかり、引取人の現れるまでは育てたいらしくときどき退屈になると南は、円い鑵からフィルムを取り出して窓の方に透かして見ながら、
「うむ、なかなか面白い。これや、あなた、見てごらんなさい。なかなか面白いものですよ。」
 と云っては矢代にも一緒に見ることをすすめた。
「オリンピックは僕も見ましたからね。競争はどうも――そのフィルムだって、満洲里まで着けば、後はそこからT社のとまた競争するんだから、もう何んでも競争だ。」
 矢代はこの競争ということが何事によらず嫌いな性質だった。T社から依頼を受けたマラソンのフィルムにしても、A社との競争だと思うと愉快ではなかったが、シベリヤの間だけは無競争も同様なので、する必要のない今の期間だけでも、せめてその競り合いから脱け出していたかった。矢代のこの競争嫌いは、千鶴子を挟んで久慈との間で起りかけたパリでのある一事件の期間も、自分から身を引いたほどだった。また彼が外国で競争らしいものをしたのは、久慈と二人で千鶴子の周囲を廻った記憶以外には一度もなかった。
 とにかく、矢代はこのシベリヤの十日の間だけは、忘れられる限りもう何事も忘れていたかった。このようなとき、ふと朝になって眼を醒し、棚の上にある競争用のフィルムが眼につくと、突然その一角から現実の呼吸が強く顔を吹きつけて来て、急いで彼は視線を反らせた。実際矢代は、今は千鶴子のことも忘れようと努めていた。それはただ単に千鶴子のことだけではなく、見て来たヨーロッパのことも、出来れば頭の中から尽く消したかった。それはどういうわけか彼自身にもよく分らなかったが、考えて見ると、それは日本があまり小さい島に見え始めて来たことが原因のようだった。日本のことを思う度びにそんなに小さく見えて来ると、矢代は、誰からも聞かれぬように胸の奥でそっと「祖国」とこう小声でひとり呟いてみた。すると、胴のあたりから慄えるような興奮がかすかに背を走った。
 しかし、また彼は、日本へ帰ってから人々の前で、
「祖国」
 とこういう名前でうっかり日本を大きく呼んだりすれば、忽ち人人から馬鹿者扱いにされ、攻撃を受ける習慣のあるのもすぐ感じた。それも人人だけではなく、前には自分もそのような一人だったような気持ちもした。しかし、いったい何時の間に、誰がこんなにさせてしまったものだろう。矢代は窓から見えるソビエットの平原に向い、ひとりこういうときには胸の中で呟いた。「ね君、君はそれをよく知ってるだろう。誰が一番こんなにさせたかっていうことを。僕は今にどこの国の人間も、僕が君に云うように、誰も彼も云い出すときが必ずあると思っているよ。俺の国の美風をどうしてくれたとね。云わずにはおれないじゃないか。」
 ここはポーランドの国境からずっと写真を撮ることも、旅客は禁じられていた。夜など窓に降ろされたブラインドを上げて外を見ることも許されず、日本人のいる矢代たちの部屋の前には、特にボーイが監視役についていて、中の様子に一晩中聞き耳を立てていた。しかし、こんなことも、矢代らはもううるさいこととは感じられなくなっていた。ただ一日も早く日本の匂いが嗅ぎたいばかりが望みとなり、それも眼のあたりに迫っているのだと思うと、どんな退屈さや窮屈さも忍耐出来るのであった。それに引きかえて外人たちは、日本が近づくに随って、表情も淋しげで日に日に力のなくなるのがよく分った。船で往くときには、マルセーユへ近づくにつれ勢いを増して来た外人たちの群れだったが、今はそれが反対に衰えの加わる彼らを見ては、矢代は、地中海へ入り始めたころの日本人らが、丁度そんなに凋み衰えていった当時の有りさまを思い出したりした。
 南はナチスの外交官がいつも手放さずに、食堂へ行くにも携げて歩いている二尺大の皮製の薄い鞄を見て、
「何んですか、それは?」と訊ねたことがあった。
「これは日本にとっては、大切な大切なものです。」
 とその外交官の一人の方が笑って答えた。国と国とを繋いで動かそうという一本の希望に似た綱が、どちらへどんなに引き合うのか分らなかったが、ただこのような鞄の中に入っただけで簡単に往来をしているのを見ると、矢代は一寸奇異な感じがした。どこの国も、この鞄の中の希いを見たくて溜らぬという時であるだけに、狭い廊下で鞄がズボンに擦れて通るときは、矢代も思わず緊張した。隣室では夜も二人の外交官らは、一人が眠ると他の一人が起きていて、交代に鞄の
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