番をしている苦心の様子を見ていても、その中の秘密の重さが思い知られた。それもソビエットを挟みドイツと日本とを繋ぐ縄である以上、この一台の客車の進行していることは、ソビエットにとって、身のひき緊る愁いでもあったろう。しかし、何ごとも希望を満たそうとして動いていることに人間は変りはないと彼は思った。よしたといそれが幻影に終ろうとも。――
 こんなに矢代の思ったのも、一つは彼にもまた希望や幻影が入り交って襲って来ていたからだった。それは日本へ帰ってからするべきさまざまなこと、勉強や、計画の実行などと、考えれば、彼のしたいと思うことがきりなく湧いて来てやまなかった。しかし、そのうちでも千鶴子と結婚するということだけは、これ一つ彼には不安だった。こんな不安は千鶴子とパリにいるときでも附き纏って放れなかったことだったが、今もなおそれは一日一日と深くなるばかりだった。
「日本へ帰ってから変るのは、やはりあなたの方だわ。あたし、あなたが変ってもあたしは変らないと思う。きっとあなたの方が変ると思うわ。」
 別れるときにそう云った千鶴子の言葉を、矢代はその後もよくそのまま呟いてみたりした。しかし、あの別れる際にあれほど切実な響きを含んでいた声も、何んとなく今は空虚な流れを伴って感じられた。それは誰でも迂濶に一度は云い、誓いに副う感傷をひき立てる表情になるとはいえ、云ったがために歓びよりも、苦しみを生むことの方が多くなる性質の詩情であった。そうかといって、矢代は千鶴子を今も信じないわけではない。またアメリカから廻って来た千鶴子の手紙も、別れの際の表情を裏切っているものでもなかった。ノルマンデイの船室から持って上ったらしい海老色の二疋の獅子が絡み合っている模様のレタアペイパには、ニューヨークの埠頭の壮観さや、船の中で知人になった人人のことや、閑にまかせた旅の観察などと、明るい筆つきで書いてあったが、特に矢代の気持を沈ませるようなことは何もなかった。むしろ、文面に顕れた明るさが却って浮き足立ったものに見え、慾を云えば、いま少しの愁いもあって欲しいと思われたほどである。しかし、こんなに思うのも、やはり矢代は、彼女の家の両親が自分と千鶴子の結婚に反対するのが十中の八九、眼に見えて明らかなことだったからだ。異国の旅の空で物を思う娘心の浮き上った言葉尻を掴まえて、帰ってから、それを誓いの言葉として迫る拷問攻めのような再会が、矢代には出来がたいことであった。考えようによれば、それはもう愛情の問題ではなく、脅迫にも見れば見られる、薄情さに変ってしまう再会にも近かった。
「外国にいちゃ、とにかく、云うことすることに間違いが多いですからね。」
 と矢代はあのときも千鶴子をたしなめて云ったことがある。
「みんなこちらのことは間違いだなんて、そんなこと――あなたがいつもそんなこと思ってらしったのが、何んだかしら、いやアな気持ちよ。毎日あんなに楽しかったのに――」
 千鶴子は彼に答えてから急に沈んだのもまた矢代は思い出したりした。そのときの沈んだ千鶴子は、帰ってからいよいよ自分と会うというときにも、一度は、あのときのような伏眼な瞼の影を湛えて考えるにちがいない。それも傍からしっかりした眼で彼女の母が見て、自分よりはるかに良い結婚の相手が沢山千鶴子に追っている場合に、一度ならず娘に忠告を与える言葉も、今から矢代に考えられないことではなかった。しかし、いずれにせよ、こっちにいるときの二人の気持ちという幻影を変えないことが大切なら、どちらも帰って会うよりも、会わない方が互いのためだと思った。地位、身分、財産、血統、家風などという、日本の内部を形造っている厳然とした事実の中へ帰っていって、なおそのまま二人の幻影を忍ばせ支えつづけて行くためには、二人は今のうちにひらりと変り、互いにこのまま会わない方が変らぬことにもなっていく。――もしこのまま約束を重んじて勇みたち、再び会うなら、――もうそのときは異国ではない、眼が醒めた浦島太郎のように互いの姿を眺め、これがあのパリにいたときの二人だったのかと思うにちがいあるまい。――
 このように思うことは矢代をいつも苦しめた。変ることが変らぬことで、そして変らぬことが変ることと思う準備――日本へ近づいて行くに随い、一度はこんな哲学めいた心の準備をしておくことも、この場合の矢代には事実必要なことだった。それが出来るか出来ないかは別としても今に憐み合うような日の来るのを待つのは不快だった。実際考えれば何ぜ憐み合うのか、この理不尽なことも残酷に襲って来るだろうと思うと、それが一層矢代には口惜しかった。こんな口惜しさが嵩じて来ると、ベルリンにいるときどきでも、その夜はもう彼は眠りがたかった。
 しかし、何を云おうとも千鶴子はもう日本へ着いているにちがいな
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