十過ぎの人物が、外国での最後の知人となって現れて来たのであったから、矢代も、この偶然に振り当てられた最後の旅を幸運だと思った。
「わたくしはこういうものですが、これから日本へずっと帰りますので、どうぞ宜敷く――日本人はあなたとわたしとたった二人ですよ。ではまた、荷物をしまいましてから、ゆっくりと――何しろ長いことですからね。」
 矢代たちの国際列車がベルリンのゾウ駅を動き始めると同時に、戸を叩いて入って来て、誰からの紹介もなくいきなりにこにこしてこう云い出したのが、南の矢代に云った最初の挨拶だった。外国にいると最初の挨拶の仕方が何よりも気にかかり、要らざることで睨み合うことの絶えずあるのは、内地にいる人の想像も出来ない激しいものである。飛んだ面白い人が来たものだ、と矢代はこのとき思った。そして、自分もこれからする十幾日の長い車中生活に必要な荷物の出し入れにかかった。荷物の整理もついたころ、また南は矢代の部屋へやって来たが、今度はくつろいだ様子で南米の話から、日本にいる子供の病気の見舞いかたがた帰ることなど、問わない先にみな話した。ところが南は、話の途中に突然不思議そうな顔をして云った。
「どうもおかしなことがあるもんですね。わたしは昨日、T新聞社から映画のフィルムを日本まで持って帰ってくれと頼まれたものですから、宜し、承知しましたと云って、引き受けたんですよ。ところが、わたしの部屋へ持ち込んで来てあるのを今見てみたらT社のじゃない、A社のですよ。A社からは、いっぺんもわたしは頼まれた覚えはないのに、どうしたことかと思ってるんですがね。おかしいなア。」
 矢代は半ばまで聞かないうちに南の不思議がるのは尤もだと思った。実は矢代もT社からフィルムを頼まれて、現に棚の上に置いてあるので、南の頼まれたフィルムの実物を、矢代が代って持っているというわけだった。
「T社のは僕が持ってますよ。」と矢代は云って笑った。
「ヘエ、あなたが――じゃ、わたしのはなんだろう。」
 ベルリンのオリンピック競技がまだ後四日も残っているという日だから、そんな途中に日本へ帰るものなどいない日のこととて、シベリヤ廻りの旅客に封切り用のフィルムを日本まで依頼する苦心は各社とも血眼だった。殊に矢代の帰る際のはマラソンを映したものであるだけに、一番重要なフィルムであった。またこれを封切る早さの勝負が、各社の能力を顕すものと一般に思われがちであったから、客も新聞社から頼まれればその熱意に動かされ、自然に二社の激しい競争の中に巻き込まれざるを得なかった。こうしていつの間にか、矢代も南も同車の敵という運命に置かれてしまっている二人だった。
「しかし、わたしはたしかにT社から頼まれたんですよ。手紙まで貰ったんですから、わたしがT社の筈ですがね。」
 と南はまた怪訝そうに小首をかしげて考え込んだ。
「じゃ、あなたを日本人一人だと見て持ち込んだんでしょう。」
「そうかもしれませんな。まア、どっちでもいいや。持って帰ってやりましょう。」
 無造作に南は云ってから、急に矢代の方へ首を突き出し小声になった。
「どうです。あなたのそのフィルムと、わたしのとこっそり取り替えっこしときましょうや。え? 面白いですぜ。そしたら。」
 人柄に似合わずふざけ方がひどいので、矢代は黙って彼の顔を見上げていると、また南は首を突き出し、
「ね、替えときましょう。その方が面白いじゃありませんか。」
 冗談にしては意外に乗り気な表情である。
「まさかそうも出来んでしょう。」
「どうしてです?」
 同意を示さぬ矢代に疑問を感じたと見え、一瞬南は真顔になった。
「どうしてって、別にわけはありませんがね。」
 無駄な骨折りをさせるだけの後のごたごたが分りそうなものだ、と矢代は思って笑っただけだったが、よほどこの人も頼まれた方のフィルムを持ちたいらしく、あくまで自分がT社の使いをしているものだと信じている様子が、車中ずっと続いていた。
 ポーランドからソビエットへ入るまでの二人は、部屋も別別だったからまだそれほど親しさもなかった。しかし、ソビエットの国境で乗り換えいよいよシベリヤ行の列車になってからは、二人は同室になったので、寝るのも起きるのも、食事も、それから雑談まで絶えず同じようにしなければならなかった。
 モスコーで四時間ほど停車の時間があったそのときも、街見物に迎いに来てくれたT社の案内の車に、南は遠慮なく乗り込み、当然のことだと思う風に悪びれず街を廻っていた。矢代も迎いのT社の特派員には南を強いて紹介せず、自分同様その社のフィルムを預った一人として、行動をともにした。またこの特派員の夫人は親切な人で、感冒で寝ていたのを起きて来て二人のために、特に車中で食べる寿司まで作ってくれたりした。
 旅先きで受けた親
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