れは景色というものではない。地球の胴体と云いたいような、何か神の手で引かれた無限の線の調査をしているように思われる、日日であった。初めのころこそ矢代は幾度となく天地の悠久な姿に嘆声を上げていたが、それもウラルを越してからは、一層猛威を発揮して来る天地の単調さが次第にうるさくなり、そっちの方はもう地球の有るがままに任せきりにして、こっちの人間は人間なりに、何か勝手な真似をしきりにしたくなって来た。
「まア、広いの、広くないのと云ったところで、お話になりませんな。」
 矢代と同室の南という人の好い貿易商人が、これも云うことがなくなったと見え、こういうことを云ったりした。アルゼンチンに永くいて、南北のアメリカの広さを知っている筈の南が洩す嘆声だと思うと、矢代は、自分の激しかった驚きも、よほどこれで正しかったのだと思った。
 隣室にはパリから北京へ行くというフランス人の骨董商が一人、その隣りがベルリンから東京へ行くナチスの外交官が二人、その次ぎには、二十歳前後の中国の青年と、その母親のフランスの婦人という順序で、これだけがいつも廊下で一組になって話し込み、自然な車中の隣人になってしまっていた。これらの組のものとは別に、アメリカの新婚夫婦が一組いたが、この二人だけは別の世界を愉しみたいと云いたげな風で、皆の話からも脱れ、仲間に入ろうとしなかった。しかし、それぞれ西洋の文化都市から大平原の単調さの中に入り込んで来た急激な変化のために、誰も矢代同様自分の身の持ち扱いに困っているらしかった。外人に馴れた南は人好きのする笑顔で、この退屈な仲間の間を誰彼介意わずよく饒舌り、そして引っこみ勝ちな矢代の傍へ戻って来ては仲間らの身の上話をして聴かせるので、特に興味がなくとも、皆の旅の目的も矢代には知れて来た。この南は商人とはいえ、貿易商であったから、紳士を何より尊重するという風があって自分も負けずに守るべき紳士の礼儀を修得することに永年かかったらしかったが、持ち前の東洋人の無頓着さが礼儀の間から綻び出て、絶えず露出している尾っ端には気附かぬ屈託のない、朗らかな風格を備えていた。一つはそれがまた外人たちに油断を与え、笑いを立てる源ともなりつつ、この平原の中の退屈さを揉み消す作用も自然にして来たのである。
「わたしは今から十年ほど前、いっぺんここを通ったことがあるんですよ。雪が降ってましたがね。そのときにはトランクを二十ばかし持ってたもんだから、乗り換えのときには弱った弱った。」
 こういうことを云うときでも、南が云うと弱った感じには見えず、滑稽さが先に立って矢代も思わず笑った。
「じゃ、あなたは前にいっぺんここを通ったのに、それでもまだここにびっくりされるんですか。」
「そのときのことは、もう忘れてますね。何んでも雪ばかしだったから、あのときは外なんか見なかった。いや、しかし、今度はたしかにびっくりしましたよ。」
 一度ここを通ったものは、生涯この大きな景色を忘れることなど不可能だと思っていたときだったから、南のそう云う頭の中が、もう矢代には想像出来なかった。十年の外国生活の間に、無茶苦茶に何かが詰ってシベリヤなど追い出してしまっているものが、これで南の頭の中に犇めいているに相違ない、と矢代は思った。
 しかし、そういえば、これで矢代も今はしどろもどろの態だった。もう今は考える余力などなくなり、見て来たものだけの重さを持ち応えているだけがやっとのことだった。パリを発ったのが七月の終りで、それからベルリンへ行った一ヵ月の間に、またいろいろの事情でイタリアまで飛行機で飛んだりした。その間、アメリカを廻っている千鶴子から手紙が三度ばかり来たが、矢代の方からは宿の定まらぬ千鶴子に手紙の出しようがなかった。ベルリンでは沢山な日本人と彼は新しく知り合になった。そのうちにはマルセーユまで同船で来た者らと巡り合ったりしたことなど、一度ならずあった。新しく知人が出来て来ると、パリで出来た知人らの面影も、去るもの日に疎しというのが眼のあたりの実情になったが、中でも千鶴子と久慈と真紀子のことだけは、同じ竃《かま》の御飯を食べ合った身近さで、寝るときなど矢代はよく眼に泛べた。しかし、総じてパリでの出来事も、移り行く旅の先では、過ぎ去った日のことだと思う気持ちも強くなった。これだけは人力ではいかんとも為しがたい自然の力のようなものだった。日本にいるときの一年の疎遠な時のもつ忘却力が、ここでは二三日で起る無情な自然力となって肉体を刺し貫き、身心ともに我れ知らぬ疲労の蓄積を堪えている。そして、その疲れの癒らぬ間に、早や次の疲労が襲って来るという風な具合で、いつの間にか疲れが疲れを生み、初めに溜り込んだ疲れなど忘れてこちこちになっている。こういうところへ、南という剽軽《ひょうきん》な五
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