さまよい歩いた。ときにはまた風来坊のように、名のある古い建物の門柱についている彫刻を見て廻ったり、見残した絵を見て廻ったりした。彼はこんなときでも何かの拍子にふと空を見るようなことがあると、急に千鶴子のことを思い呼吸が空に吸いとられるように淋しくなったが、しかし、何ごともみな過去のことだと思うとまた石の間をことこと歩いた。そのうちに、見て廻る彫刻が見事であろうと絵が美しかろうと、もう何んの興味も感じなくなって来た。こんなあるとき、自動車の中で自然に手の指の触れた肱つきのダイヤルを廻すと、突然バッハのコンチェルトが聴えて来たことがあった。そのときは矢代も音楽のやむまで自動車を走り廻したが、その間は千鶴子が横で生き生きとして囁き動き、擦りよって来てはまた笑うとどまりのない愛撫を感じて一層あたりが寂しくなった。
 ある日曜日の夕ぐれ、矢代は歩き疲れて食事場の方へ帰って来た。すると、人のない通りのベンチにひとり腰かけている東野が前方の寺院の方をじっと眺めているのに出会った。だんだん近よって行くと、東野の後ろで四つ五つの男の子がベンチの背の上に馬乗りになって、片足を東野の肩から胸へ跨ぎかけ、玩具の豆自動車を東野の冠っている帽子の縁の上で競争させながら、
「赤、行け、黒、行け」
 などと云って廻していた。東野は子供が落っこちないように、片手で子供の脇腹を抱いていたが、やはり身動きもせず、寺院の門からぞろぞろ出て来る黒い服装の老婆の群れを眺めつづけた。
 矢代は暫く立って黙って見ていると、子供の廻している豆自動車は銀座の夜店でよく見かけた日本製のものだった。
「どこの子です。この子。」
 と矢代は不意に訊ねて東野の横へ腰かけた。
「どこの子かね。僕んとこの子供と同い年らしいから、遊んでみてるんだが、こ奴僕をどっかの土人だと笑ってるらしいんだよ。まだ顔も見よらん。」
 東野は笑いながらそう云って胸に垂れた子供の足を掴み、片手を胯の間から背へ廻すと、指先で牛肉を圧してみるような手つきで、
「なかなかこの子の肉は強靭だよ。この調子だと、これやフランスもまだまだ大丈夫だな。」
 と云った。
 子供は二人の方を見ようともせず、東野の頭の上で、
「赤、行け、そら行け。」
 などとまた云いつづけせっせと自動車を廻していた。その前の寺院から出て来る老婆の群れもまだ続いていたが、薄明りの中をわが家へ帰ってゆくそれらのどの顔も笑っているのは一人もなかった。
 矢代はしばらくして空腹を感じたので東野を食事に誘ってみた。東野は頭の上の子供の自動車場の崩れるのが惜しそうな様子で頭を動かさず、
「坊や、もう御飯だから降りなさいよ。ええ?」
 と下から父親らしい日本語で云った。しかし、子供は彼の声も聞えぬらしく夢中で東野の頭をしっかりと片手で抑えた。矢代はふと後ろの方を向いて見ていると、露地の入口の所から子供の母親らしい婦人が立ってこちらをじっと見ているのと視線が合った。その婦人はさっきから自分の子供を呼んで良いものかどうかと躊躇していたものと見え、謙遜な美しい微笑を泛べながら東野の方を見てやはりまだ立ちつづけていた。
「さア、行くぞ。よっこらしよ。」
 東野は子供を抱いて下に降ろすと、
「夏のパリは貧乏人ばかりでいいですね。のびのびしてゆっくり出来る。極楽浄土じゃ。」
 と云いつつあたりの夕暮の景色を娯しそうに眺め眺め、矢代と並んで食事場の方へ歩いていった。


 もう三四時間で国境の満洲里へ着くというころ、少し矢代は眠くなった。いつでも汽車から降りられる支度を整え上衣を脱いだだけの姿でまた彼は寝台へ昇った。この列車の寝台は昇るというほど高かった。夜中など振動のため抛り落されそうになって眼が醒めたこともある。およそ十日間ほど続いてシベリヤを走っている旅であった。十日も同じ方向に進行している車の中の暮しは、退屈というよりも時間の観念が常態ではなくなっていて、どこか頭の中に棲み始めた異様なものが、身体から感覚を吸い摂り肥って来ているような、麻痺状態がずっとつづいた。今さき朝起きた筈だのにと思っているともう夕日が窓から射して来る。こんな筈がないのにと思って考え込んでいるうちにすぐ、窓の外は闇になる。時計などを出してみても、このあたりの時計はモスコーの時間そのままで午前の九時が事実の午後の四時ごろに当っているので、そこを絶えず事実と時計の差を計っていたりしては疲れた頭を一層痛めるばかりで面倒だった。
 それでも矢代はシベリヤの旅の十日間を、思い出してみようと努力してみることもあった。すると、不思議なことに印象といっては何もないのに彼はまた驚いた。ただ一面の草ばかりが日を受け、大海の中の水平線と同様真直ぐに延びはだかった地平線が、ポーランドからずっと続いて来ているだけだった。こ
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