てた心細さも手伝うのであろう、千鶴子も一言いっては黙り、またぽつりと思い出したように云っては黙った。矢代は今日は自分ひとり引き返して来る唯一の人間だったから、これで皆の客とはよほど気軽に自分も浮いているのだろうと思ったが、それにしても、千鶴子は来るときロンドンから飛行機で来ており、帰途も自分からこれにすると云い出したところを見ると、カソリックはやはり天に憧れがあるためかもしれぬと、矢代はまた自分に不可解な日ごろの千鶴子の潔癖さを考えたりするのだった。
ブールジェへ著いたときは、出発の時間にまだ三十分も間があった。この前千鶴子を迎えに矢代の来たときよりも、芝生の緑が濃くなっているためかハウスの玉子色が一層鮮やかな感じだった。矢代はサンドウィッチとチョコレートを買い、千鶴子に持たせてから壁の航路図の前に立ってみた。
「あなたを迎えに来たとき、これを見て急に日本へ僕は帰りたくなったんですよ。安南まで一週間で飛ぶんだからな。」
こう云って矢代は自分もベルリンへは飛行機にしてみようと思ったり、不意に千鶴子より先に日本へ帰っているところを想像したりしているうちに、もうロンドンから来たらしい飛行機が芝生の上へ降りて来た。
「あ、そうそう、忘れてたわ。チロルでカメラお買いになったでしょう。あれお別れのときいただくお約束でしたから、荷物の中へ仕舞っちゃいましたの。下さいねあれ。」
と千鶴子は顔を赧らめねだるように首を一寸傾けた。
「ああ、そんなこともありましたな。」
と矢代は笑った。チロルの氷河を渡った夜、山小舎の深い乾草の中で眠ったとき、眠れぬままに千鶴子が身動きをすると、ずっと放れて寝ているこちらにも動きがそのまま伝わって、ゆさゆさと揺れて眼を醒した一夜の寝苦しさを矢代は思い出した。もうあんなことも二度とないのだ。とそう思うと、自分の青春も今このときを最後に飛び去って行くのかもしれぬと思われ、ふと彼はあわただしげにそのあたりを往ったり来たりする人人の姿を眺めながら、時のすぎゆく早さを身に沁み覚えて来るのだった。
「もう時間でしょう。」
矢代が時計を見上げて云うと、びっくりしたように千鶴子も、
「そうかしら。」
と壁を仰いだ。乗客らは芝生へ降りて行くものも見えた。見送人は待合室から出られないので二人はまだ向き合って立っていた。客の荷物も飛行機に積まれている最中らしかった。立ち際の気の散る様を抑えながら千鶴子は、
「あたし兄さんから、フロウレンスへ行って来いと云われたんだけど、とうとう行けなかったわ。でも、短い時間じゃ無理ね、どこへも行きたくなくなるんですものね。」
こんなことを云っているうちに、エア・フランスのマークをつけた銀色の機の扉が開かれ、もう客たちが中に這入るのを見ると、千鶴子は急に顔色を変えてハンドバッグを脇にかかえ込んだ。そして、矢代の眼を見詰め、
「じゃ、行ってきますわ。御機嫌よう。」
と云った。
「さようなら。」
思いがけなく早い別れに矢代は、「さようなら。」を返すのも軽い声より出なかった。握手をしてから千鶴子は芝生の方へ歩いていったが、また一度こちらを向き返るといつもの笑顔に戻り軽快な歩調だった。三つのプロペラが一つずつ廻り出したとき、千鶴子は機の踏段に足をかけてまた矢代の方へ手を上げた。
矢代は瞬間扉の口へ絞りよせられるような眩惑を感じ、千鶴子が中へ消えると、初めて機体が芝生の中に形を整えたはっきりとした一箇の鳥の姿に見えるのだった。千鶴子は羽根の真上のあたりの窓からこちらを覗きながら手袋のようなものを振っていたが、その窓も顔もほんの小さくより見えなかった。矢代は緊張がゆるんで手応えのない感じで手を上げた。
機体は俄に乳色の煙を草に噴きつけた。そして、大きな爆音が聞えドアが閉ると、矢代は血がどっと頭にかけ昇る思いでまた手を大きく振りつづけた。
それからもうすぐだった。機体は地の上を辷って舞い上っていった。千鶴子は窓から黄色な手袋だけいつまでも振っていた。しかし、それも見る間に方向を変えて空高く上り、一点となるやもう矢代には何もない空だけ静かに青く見えているばかりだった。
「ほんとにあの空にはたったあれだけか。」
と矢代は暫くぼんやりとしていてからそんなに思ったほど、空はフランス色の鮮やかな空しさで静静としていた。彼は取りとめのない泡の消えるような音を聞きつづけている思いで、待合室の隅のカフェーの椅子にひとり坐り出て来るコーヒーを待った。
パリ祭がすむと急に避暑に散ってしまう慣しらしいパリには、なるほど人が眼に見えて少くなった。そこへ千鶴子が帰ってから二日目に、久慈と真紀子たちもマルセーユ廻りでスペインへ旅立った。ひとりになった矢代は朝から閑を持ち扱いかねて、ブロウニュの森の中を終日あちこちと
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