ものか、写真機を停っているバスや千鶴子の方へ向けていた。荷物も飛行場行のバスの底に入れられてしまったとき、久慈は千鶴子に云った。
「もうパリはこれで見おさめだから、よく見ときなさいよ。ここを発つときは誰だって泣くんだそうだが、君もう泣いちゃったの?」
「あたし? あたしは泣かないわ。カソリックなんですもの。」
千鶴子は暗に昨夜の潔白さを示したい反抗の語調で軽く笑い、そう云ってからふと傍の真紀子に気がねの様子で振り返ると、
「マルセーユへ皆さんと着いたの昨日のようですのに、早いものですことね。でも、ほんとうに、あたしもうこれでここ見られないのかしら。」
とあたりの街街を見廻した。
「それや、君の心がけ次第さ。」
と久慈はまた赦さずひと刺し千鶴子を刺すのだった。
「じゃ、あたし、もう一度来るわ。一度来てしまうと、何んでもなく来れるように思えるのね。神戸で船の梯子を登れば、もうそれでいいんですもの。」
それはそうだというように真紀子も久慈も笑ったが、真紀子だけは帰りたそうに空を眺めていてから、今日は帰りにスペイン行のコースを験べて来ましょうと久慈にせがんだ。三人の傍へ塩野が来ると千鶴子に、飛行場行のバスは一ぱいで見送人は乗れないそうだから、今日はもうここで失礼すると云い、ロンドンへ行ったら君の兄さんに宜敷くと告げた。
「それじゃ、困ったな、そんなら矢代一人をやろう、一人なら空いてるだろう。」
と久慈は云ってバスの運転手のいる方へ行った。戻って来ると彼は矢代に、君一人なら何んとかなるそうだからブールジェまで僕らの代表で行ってくれと頼んだ。矢代は黙って時計を見ると間もなくバスの出るころだった。どこにいたのか今まで見えなかった乗客もいつの間にか集って来ていて、だんだんバスに乗り込むのが増して来た。
「中田さん、もうベルリンへお発ちになったかしら?」
と千鶴子は塩野に訊ねた。
「今朝早く発った筈ですよ。あんまり早いんで僕は見送れなかったが、あの人ゆうべもあれから弱っていましたよ。真面目な学者だからなアあの人は。」
何んの気もなくそう洩した塩野の言葉に、一瞬矢代と久慈も、集りかかった玉がぱっと爆けるように衝き放された気持ちで黙った。東野は後ろの方で塩野の話を聞いていたものらしく、笑いながら久慈に近づいて来て、
「君、昨日殴られたんだって?」
と訊ねた。久慈は不愉快そうな顔で東野を見たが、例の負けず嫌いな精悍な眉を上げ、「何に、一寸ですよ。」
と云い渋った。
「でも、鼻血が出ましたのよ。ひどく出ましたの。」
と真紀子は傍から久慈の嫌がることに気がつかずうっかりと話した。矢代にだけ分るこんな久慈の苦苦しげな突然の緊張に立話が意外に白らみを見せかけたとき、
「じゃ、もう乗りましようか。」
と矢代は千鶴子を急がせた。
「それでは皆さん、どうも有り難うございました。」
と千鶴子は皆にお辞儀をした。さようならと声を揃えてバスの入口へ集って来た皆のものに、また千鶴子は挨拶をしてバスに這入った。後から矢代も乗り込んだ。彼は窓口から放れた方に椅子をとると、顔を反対の方へ反らせていたが、久慈と真紀子の些細な喰い違いが眼に残り、あの調子では二人とも遠からず別れるときがあるなと、ぼんやりと思うのだった。そのうちバスはすぐ動き出して一行から放れて行った。二人はしばらく黙って揺られていてから、
「真紀子さんたちスペインへいらっしゃるの、いいわね。」
と千鶴子は急に傍に矢代のいることに気づいたらしく彼の方へ身を向け替えて云った。
矢代はスペインへは自分も行ってみたいと思い頷きながら、
「あれで久慈はどういうものだか、まだパリを放れたことがないのだからな。パリを放れると損をすると思い込んでいるんだから、あの男にはスペイン行もいいでしょう。」
矢代はこう云ってから真紀子と久慈との、一見無事な情事もなかなか容易ではないと云おうとして、ふと自分たち二人も実はどうだかまだ分ったものではないのだと思った。街が郊外となり空が行手に拡って来ると、薄靄も次第に晴れて来た。矢代には空がいつもと違って恐ろしく支えのない空漠としたものに感じられた。遠く旅して来た彼の眼にいつも変らず随いて来た懐しい空だったが、今日のはいつ突き落されるか計り知れぬ、鳴りを静めた深深とした色合いに見えるのだった。
「これでもう、マロニエなんか落葉しているのがあるが、僕ら日本へ帰るころは、もう稲の穂が垂れていますよ。」
「そうね、でも、あなたあまり永くベルリンにいらっしゃらないでね。」
「もう外国にはそんなにいたくないな。よほど良い所でも、僕はやはり考えますね。」
飛行場のバスはどこのでも、客たちの間に一種鈍重な沈黙が圧しているものだが、これから空を飛ぶのだという、人間の習性をかなぐり捨
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