「雨まだかしら。」
 と云って窓のない廊下の外を覗う様子を一寸しかけ、また矢代を見た。矢代はボックスが停ると千鶴子の肩を押した。
「君もうここでいいですよ。じゃ、また。」
 闇の中に光っている大きな千鶴子の眼を見ながら、矢代は笑顔を軽く作って下へ沈んでいった。彼は奇蹟に似たものが体内で激しく起っているような、何か気違いじみた素晴しく軽い飄然とした気持ちだった。
 ホテルの外へ出てからも彼はやみかかった小雨の中をルクサンブールの方へ歩いた。五階の千鶴子の窓の灯がもう消えたかと思って仰ぐと、窓はもう前から開いていて千鶴子がそこから下の通りを覗いていた。矢代は早く眠すみなさいという意味の手枕の真似をしてみたが、黒い影のように見える千鶴子の姿が、
「どういうこと、それ?」
 と訝るらしい首の曲げ方で答えた。その千鶴子の様子は、なまめかしい悩みを顕している風にも矢代には見え、一瞬強く足の立ち竦む思いに打たれるのだったが、それもどういう作用で切りぬけているものか彼も分らぬまま、また歩いて街角を曲った。
 初めて千鶴子の影が見えなくなったとき、矢代は首すじから背中の半面へかけひどい疲れで鈍痛を覚えた。歩く足も右を出しているのに左を出しているような錯覚を感じ、ときどき足を踏み変えてみながら公園の外まで行って彼はそこのべンチへもたれかかった。


 翌朝矢代は早く眼が醒めたがまた眠った。そして、うとうとしてから、時計を見るともう九時近かった。コーヒーも飲まず彼は千鶴子のホテルへすぐ自動車で行って、その車を下で待たせたまま、五階へ上っていった。薄化粧もすました千鶴子はただ彼の来るのを待っているばかりだった。
「早く起きたんだけれども、あんまり早すぎてまた眠ってしまった。どうも失礼。」
 と矢代は云って笑った。昨夜の苦しい決断がこの日の朝の快活さを予想してなされたかのように、二人は打ち溶けた気持ちの良い笑顔だった。千鶴子は宿の払いも今すませたばかりだと云ったり、この天気だとドーバア海峡の揺れも少いだろうと喜んだり、あわただしげな中にももう悲しそうなところは少しもなかった。矢代は薄靄のかかった森の上にパンテオンのかすんで見える窓の傍まで行き、下の自動車を指差した。
「あれが待たせてある自動車ですから。――まだ一時間もありますが、どうします。もう行きますかね。」
「行きましょう。皆さんお待ちになってて下さるといけないわ。」
 千鶴子はこう云って洋服箪笥を覗いたり鏡に姿を映してみたりした。矢代はスーツケースを二つ両手に下げて廊下まで出ると、女中が馳けて来てそれを受けとり、馴れた早さで階段を降りていった。下まで二人が降りたとき、ホテルの主人が千鶴子に、それでは身体に気をつけて良い旅をせられるようと挨拶した。自動車をグランブルヴァールの方へ走らせ出してから矢代は、
「どうです。もう一度見たいところはないですか、車をそちらへ向けさせますよ。」
 と云ってみた。千鶴子はルクサンブール以外どこももう見たくはないと答えた。車が公園の外郭に沿って廻り始めたとき、矢代は突然、もう二度とは見られぬ死にゆく病人と別れるような淋しさを感じて胸が詰って来るのだった。千鶴子もその間黙っていたがすぐ車はもうサン・ミシェルの坂へ出てしまった。
「ほんとに良い天気だこと。あたしいつも運がいいのよ。来るときもこんな日だったし、今日もこんなでしょう。」
 と千鶴子は笑ってまた晴晴しそうに薄靄のかかった街を眺めた。
「パリの人間は見送りというものをしないそうだが、日本人は好きだなア。送ったり迎えたり。――」
「そうね。」
 二人は強いてこんな意味のない言葉ばかりを探さねば、何か持ち切れぬ感情の重さに潰れそうな不安を感じ、自然とどちらも暗黙の警戒をするのだった。車がセーヌ河をぬけるともう飛行館へ近づいて来た。飛行館には真紀子と久慈と東野との三人が先から来て待っていた。
「ゆうべは電話をかけようかと思ったんだが、あれから映画を観に行った。元気はいいのか。」
 と久慈は降りて来た矢代に訊ねた。無表情ながら何んとなく、負惜しみを云ったってやはり恰好はつけただろうと冠せる気組みも見え、矢代は答えに窮して黙った。それぞれもう飛行館に着いた安心さで皆が立話をしているとき、ひとり放れていた東野が、
「荷物。荷物。」
 と矢代に注意した。矢代はスーツケースを検査場へ運びながら、この方が痛いなと思い、目方を計って貰っているところへ塩野が来た。彼は東野を見るとまだ皆に挨拶をせぬうちから、
「昨日はひどい目にあった。サンゼリゼで右翼と左翼の衝突があってね、僕はその間へ挟まれちゃって、殴られた殴られた、まだ頭痛いや。」
 と顔を青年らしくぼっと充血させて始終を話した。話しながらも塩野はもう何か新しい風景を見つけた
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