っしゃるのでしたら、あたし、何を云ったって駄目かもしれないわ。」
と、ふとまた矢代の云ったことを真実なことと気づき直した様子の千鶴子は、夢見るような伏目のままに、
「そんなことをいつも考えてらっしゃれば、あなたのようになるのね。でも、あたしはそんなこと、もっと簡単に考えていましてよ。そんなこと、いくら深く考えたって、それや駄目なことだとあたし思うの。ここで起ったり思ったりしたことは、あたし一番変らないと思うの。本当にそう思うわ。」
「それは、君はカソリックだからでしょう。そこが僕と違うのだなア。」
と矢代は初めてまた胸をついて来た新しい事実に内心びっくりして口走った。しかし、争いの鎮まりかけたものを再びかきたてるこの無用も、もうするだけしてしまいたいと彼は決心するのだった。
「あなたは物事を考えるのに、ヨーロッパを基準にして考えているのですよ。しかし、僕はやはり日本を基準にして考えてますからね。それだけはどう仕様もないものだと思うな。」
「それじゃ、日本へ帰ってから違うのは、やはりあなたの方が違うわけね。あたしの今の考えの方が正しいわけだわ。きっとあたしの方が正しくってよ。あたし、あなたが変ってもあたし変らないと思う。きっとあなたの方が変ると思うわ。」
「とにかく、そんなことは云ったって始まらないことばかりですからね。それですよ。僕がこんなに用心ぶかいのは。」
こう云いながらも矢代には、今は二人の争ったことは愉しいことだったが、しかし、こんなに好意を持ってくれた婦人がこの千鶴子だったのだと思うと、また一層彼は帰ってからの怖れが心配になるのだった。現にこの日の昼間のことを考えても、サンゼリゼの伝統派と左翼との格闘のさまなど、カソリックと科学との闘争だといえば云うことの出来る精神の違いの流血沙汰だったと思われた。彼はあんなことが、千鶴子と自分との以後の生活に起ったなら、終生どこを二人の結ぶ心として生きてゆくべきなのか、これは考えれば考えるほど心中根を深めてゆくばかりだった。もし今の二人の別れが身も心もともにこのまま別れる最後だったら、それなら自分はもっと愉しむだけは愉しむかもしれぬと思った。
けれども、矢代はこのような不用な怖れを今ごろするのも、こんなことばかりが絶えずぎりぎりと頭にかかるこの西洋に現在自分がいるからであり、また一つは、昼間のサンゼリゼの出来事を眼にした直後の不安なせいかもしれぬとも思うのだった。あるいは日本へ帰ってしまえば、カソリックであろうと法華であろうと、さらに異とせぬ、「えい。」と気合いのかかったような爛漫たる無頓着さで、事は無事融合されてしまうのかもしれない。そんなら二人にとって一番神聖なものもやはり日本にあるにちがいない。
「まア、あなたは僕より一足さきへ帰ってみてくれ給え。何も僕はあなたを疑ったわけじゃなし、二人のために一度はしなくちゃならぬ心配を、うち明けてみたまでのことですから、黙っていたのより、気にかけた方が安全だというようなものでしょう。」
「それはそうね。黙ってて下すったのより仰言って下すった方が、やはり良かったと思うわ。」
表情までまだ矢代の云うままに流れて来る千鶴子だったが、それでももう前のような明るさはだんだん千鶴子から消えて来た。後から襲って来る不幸よりも、不幸を未然に防げたという意味にも解せられる千鶴子の力なげな様子が、またこうなると矢代には心配になり始めた。それも千鶴子の頭へ、これから帰って行こうとする日本の待ち伏せた生活が、早や波打ち上って来ているのにちがいないのである。しかし、何んと云おうと、どちらもわれわれの生活へ戻ってゆくのだと矢代は思った。それが不幸になろうと幸福になろうと、何を今から恐れたことだろう。――夢見るだけは、もうここで自分らは夢見て来たではないか。そんなら、帰れるものだけ早くさっさと帰れば良いのである。――
こんなに思うと、矢代も急に千鶴子を前へ突き動かしたくなって来て、
「さア、もう僕も帰りましょう。こんなにはしてられない。」
と云うとグラスに残った葡萄酒を一息に傾けた。彼は立って千鶴子に強く握手をしながら、寝過したら電話で起して貰いたいと頼み、
「さようなら。」
と云った。
千鶴子は手を出したまま握り返さず、黙って矢代の顔を見ていたが、本当に帰って行く彼を見ると後ろから急いで立って来て、
「じゃ、さようなら。」
と一こと云った。矢代は暗い廊下へ出てからエレベーターの前まで来て、上って来るボックスを待っていると、千鶴子は後から追って来て彼の傍にまた青ざめた顔で黙って立った。
「あなた本当にお帰りになるのね。」
「帰ります。」
と矢代は灯の点いたエンジケイタの針の動きを眺めて云った。針が五階に近づいて来たとき、千鶴子は肩を寒そうにつぼめ
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