のある眼に変った。
「中田さん、見たでしょう。明日ベルリンへ行くのに、いい土産になりましたね。何よりのお土産だ。ベルリンはまた違うからな。」
塩野にそう云われ、さきほどからますます考え込んで黙っていた中田は、「うむ。」と難しげに頷いたが、
「いよいよ困った土産だ。とにかく、ベルリンの郊外へでも行ってから、ひとつゆっくりと考えよう。」
呻くように中田は一層顎を襟に埋め込み、腕を拱いてテーブルの上を見詰めてまた黙った。何んだか強い弾丸に一発致命的な部分を射抜かれた様子である。舞台のような道路の上で、まだ立って動かぬ警官たちの鉄甲の縁から雨の滴りが垂れて来た。
「僕も二三日したらセヴィラの方へ行くよ。少しパリを離れてみなきア、何んだかよく分らなくなった。」
久慈はそう云いながら真紀子からハンドバッグを取り、中から鏡を出して幾分腫れ気味の頬を映してみた。
「みんなどっかへ行っちまうのか。淋しくなるなア。」
と塩野は前の元気も急になくなり雨空を眺めて歎息を洩した。空がだんだん暮れかかって来ると、もう通りには警官隊のほかほとんど人影が見えなくなった。
その夜食事を終えてからトリオンフの一同は皆でモンパルナスへ帰って来た。雨は急に降って来たり霽れたりした。千鶴子の送別会も昼間の疲れでお流れになったままドームへよると、ここはいつもより人が立て込んでいて、どの部屋も満員だったがようやく詰め込む席を探してお茶を飲んだ。
客たちは誰もみなナシヨンかバスティユの方へ行っていたものらしく、サンゼリゼの出来事を見たものはないような話だった。殊に危険を冒してその日の写真を撮ったものは、塩野を措いて他の外人のうちには一人もいなかったにちがいない。
矢代はもう千鶴子と二人ぎりになりたかった。疲れも相当に激しく、また今さら云うべきことはないとはいえ、それでも今夜ひと夜よりないのだと思うと、やはり久慈に云われたように皆と別れて二人でいたいと思った。雨の湿気のためかいつもより煙草の煙がむせっぽく立ち籠って来るにつけ、各部屋の中からはしきりに激論が増して来た。それでも矢代の気持ちは始終表の街路へ向いがちだった。街角の闇の中に塊った警官隊の銃剣が濡れた鉄甲の部分と一緒に物音も立てず光っていた。どこかの踊りから脱けて来たのであろう、人通りもない石塀の傍をインディアンの仮装で疲れた足をのっそりと運ぶ画家らしいのが、二三槍を突きつき、「おう、おう。」と叫んで雨の闇の中へ消えていった。
「じゃ、ちょっと千鶴子さんの荷物の手伝いをして来るから。――すんだら来るよ。どこにいるかね。」
と矢代は立って久慈に訊ねた。
「いいよ。そのまま行って来いよ。」
笑いもせずむっつりと云う久慈に矢代は顔を赧らめ、ふと挨拶めいたお辞儀をした。
「それではこれでお別れですのね。皆さんどうぞお丈夫で。」
千鶴子は立って腰をかがめ皆に挨拶をした。
「あ、そうだ、明日の朝だったなア。」
塩野は忘れていたらしく頓狂に云って千鶴子の顔を見上げたが、
「じゃ、さようなら、明日また。」
と軽く会釈をし直した。久慈はもう千鶴子を見なかった。真紀子だけひとり千鶴子と握手をしたがそれも軽かった。明朝また見送りにもう一度と皆が思っているにしても、皆の想いとは別にこの夜の別れは非常に簡単だった。
矢代は襟を立て雨の中を歩いていった。千鶴子はぴったり彼により添うようにしてついて来たが、道路が暗くなって来ても二人は何も云わなかった。
木の葉の匂いの強い夜で、歩いて来る人声が聞えていても擦れちがうときただちらりと顔が見えるほどの暗さだった。矢代はいつも歩くこの大通りがこんなに暗かったのかと、初めて驚く気持ちで周囲を見廻した。千鶴子も一緒に街路樹を眺め、
「もうこの街も二度と見られないかもしれないのね。これで。」
とそう云ったが、そんなに悲しそうな声ではなかった。
「ロンドンに暫くまたいらっしゃるようだったら、ときどき手紙を下さい、もっとも僕もすぐここを立つだろうと思いますがね。」
「ええ、でもすぐ船に乗らなくちゃならないと思うの。ですからあたし船の中からお出しするわ。あなたのホテル、手紙きっと廻してくれるのかしら、そんな妙なことだけがこの間からの心配ですのよ。」
見上げて笑うらしい千鶴子の声に矢代もつい笑い出した。
「大丈夫ですよ。あなたがニューヨークへ着いたころは、僕はベルリンあたりにいると思うな。」
「あたしたち横浜へ着くの三十日ほどかかるんですから、もしあなたがシベリヤ廻りでお帰りになるんだったら、十日ばかりあなたの方が早いわけよ。面白いわそしたら。」
千鶴子はこう云いながら明日の別れを少しも惜しむ様子ではなく、むしろ矢代のこの度びの黙っている別れの気持ちを万事のみ込んでいる風があり
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