ありとした。こんなときでも東西に別れて二人が帰らねばならぬ事情というものは、やはりそれぞれにこれで胸中にあるのだなと矢代は思い、またそれが日本の風習である限り是非それだけは守らねば、どっちの父母からも許されぬもののあるのが、厳格極まりない日本だと思った。それはどういう理由かもう彼には分らなかったが、何んとなくそれは非常に見事な習慣だと思われ、自分が千鶴子の家と自分の家との二家の父母の許しを待つまで、君を愛すなどという言葉も千鶴子に使いたくないのも、実はただそれだけの分らぬ理由からだったとも思った。
 ホテルへ着いてから二人はエレベーターの狭い箱の中に這入り、初めて鈍い電灯の下で顔を見合せた。千鶴子は雨に濡れた矢代の胸のボタンを爪で掻き掻き、ちょっと首を傾けた嬌奢な笑顔で何か云いたそうに唇を動かしたが、その間に箱は上まで昇ってしまった。
 千鶴子の荷造りはほとんどもう出来上っているのと同じだった。ただこまごまとした物を纏めてトランクに詰めれば良かっただけだったが、それも千鶴子でなければ出来ぬ女の使用品ばかりだった。
「手伝いに来たのに何もないんだな。」
 と矢代は手持無沙汰に立ったまま云った。
「たったこれだけ。もういいんですのよ。」
 矢代はそれでも口を開けているスーツケースの蓋を膝で抑え留金をかけたり、古新聞をも一つのに詰めたりした。あまり重くなっては飛行機だから料金が高くなって困ると千鶴子の云うのに、古新聞は記念に良いものだからと矢代は云い張って無理に持たした。矢代から記念と云われると、千鶴子も気軽く笑い愉しそうに応じるのだった。
 すぐ何もすることがなくなったとき千鶴子は下へコーヒーを※[#「口+云」、第3水準1−14−87]咐けた。ソファに向い合ってから、急に千鶴子はロンドンの兄のところへ電話をかけてみようかと矢代に相談した。
「しかし、帰る時間を知ってらっしゃるなら、何もわざわざ不経済する要ないでしょう。」
 と矢代はこれにも反対した。
「でもね、兄さんにはあなたのことよくお話してあるんですのよ。ですから一度電話ででもお話しになって下さると、あたし、何かと後でいいかと思うんだけど。」
 こう云って千鶴子は矢代の顔を見たが、すぐまた、
「どちらも声だけじゃ何んだか変ね。よしますわ。」
 と打ち消した。火の点くように顔の赧くなり始めていた矢代もそれでほっとするのだった。コーヒーが来てから最後の晩餐だからというので、葡萄酒もついでに頼んだ。矢代はここにいるのも後一時間ほどだと思い、時計を見るともう十一時近かった。
「明日の朝は十時とすると、九時にここへ来ればいいな。自動車は僕が乗って来ますからそれで行きましょう。」
 矢代は云うべき必要なことはもうないものかと考えたが、旅に必要なことは何もなかった。
「ロンドンを出るとき電報を上げますから、そしたらあなたも船へ下さるんですのよ。あなたはきっと下さらないと思うけど、駄目よそんなの。ね。」
 と今度は強く千鶴子は云って笑顔を消し矢代の答えを待つ風だった。
「出します。」
 と矢代は簡単に答えた。そのまま二人は言葉の継ぎ穂もなく黙っていたが、矢代は椅子の背に落ちつきながらも、浮き上っていく興奮にどこか身体の綱がぶつりと断れた思いだった。葡萄酒が来て女中が下へ降りてから、千鶴子は矢代の後の床へ膝をつき寝台の上で黙ってお祈りをした。
 チロルの山上のときに一度千鶴子の祈るところを矢代は見たことがあったが、今夜のはひどくこちらの心を突くように感じ、彼もその間ともかく伊勢の高い鳥居をじっと眼に泛べて心を鎮めるのだった。
 暫くして千鶴子が立って来たとき、矢代はカソリックのお祈りをした千鶴子に気がかりな何んの矛盾も感じなかったのが気持ち良かった。千鶴子は前とは変って笑顔も生き生きとして来て、葡萄酒をグラスに瀝いでから二つ揃えた。二人はどちらも黙って葡萄酒を飲んだが、矢代は、今こんなにしていることが婚約を意味していることだとひそかに思い慎重にコップを傾けた。千鶴子の一息に飲み下す眼もともうやうやしくひき緊った表情に見え、それもみな自分の心に応じてくれた優しさだと一層喜ばしくなるのだった。
「それでは明日はお疲れだから、今夜はこれで失礼しましょうか。」
 矢代は果して帰れるものかどうか自信もなかったが、気持ちの晴れたのを好機に、こう云って絡る思いをひき断る気力でうーんと力を椅子の肱に入れてみた。
「でも、今夜だけはもっとお話していたいわ。あたし。」
 千鶴子は表情も動かさず、突然帰ろうとする矢代の考えを嚥み込みかねた訝しさで矢代を見上げた。
「しかし、飛行機は疲れますよ。良ろしいか。」
「でも、たった三時間なんですもの。眠らなくってもいいわ。クロイドンまでだと一時間半よ。」
 矢代は千鶴子の眼
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