代はその方へ馳け進もうとしても荒れ狂った群衆に遮られ、もう自由に体が利かなかった。並んでいる自動車の窓という窓ガラスが滅茶苦茶に叩き砕かれていった。
 ひき裂かれたワイシャツから血を噴き出した赤い徽章の男が一人、叩かれても突かれても、跳り上ってはまた群衆へ幾度でも飛びかかっていくのがあった。そこへ新手の群衆が殺到して殴りかかる。もう血みどろになったその若者の顔は目鼻も分らぬながら浮きつ沈みつしていた。政府党の警官たちは、その間にも誰彼なく検束にかかっていたが、どれもみな右翼のものを抑える検束だった。
 奪い返そうとするもの、それをまた引きつれて行く警官らとの間で、暫く揉み合いがつづいていた。しかし、群衆はも早警官の活動力には手にあまるほど膨脹していた。暴れ廻っている中心の輪が拡がって流れ、下へ下へと爆け流れて行こうとしているときである。
 今までぼつりぼつりとより降っていなかった雨脚が急に激しくなって来た。すると、いつの間に顕れたものか市直属の鉄甲の警官隊が、鋲を打ち込むような固さで一人ずつ群衆の間に立ち並んでいった。思いがけなく中心核から遮断された群衆はまだどよめきを続けたが、不意に黙黙と立ち並んだ銃剣の厳しさには近づき難い様子だった。しかも、この一隊だけは政府党の警官たちをも監視し牽制する厳正中立の鉄甲である。それでもまだここへも雪崩れかかろうとして詰めよる群衆と、引き返す者との混乱が暫くは繰り返した。しかし、それと同時に三段の構えで、坂の上と下から騎馬の警官隊が栗色の馬の胴をよせ合い密集部隊となってじりじり群衆を締めくくって来るのだった。
 もう群衆ははっきりと田の字形に包まれた中と外との二つに別れた。矢代はこの鮮やかな警官隊の包囲の外に立っていたが、銃剣の警官にだんだん締め縮められてゆくその中に久慈や塩野のいるのを見た。塩野はまだカメラを上げてあたりを狙っていたが、久慈は鼻からひどく血を出してハンカチで抑えていた。
 矢代はどうなることかと見ているうち、雨はますます激しく降って来た。今は警官の包囲の外の左翼も右翼も退き、まったく誰も近よろうとしなくなったときだった。警官たちは中に締めくくれるだけ締めた群衆の中から、見覚えの暴れたものを牛蒡抜きにゆっくりと検束にかかり始めた。矢代はこれではもう世界の文化の中心もいよいよ崩れへたばってゆくばかりだと思い、茫然として最後の文化のその絢爛な呻きを聞いているとき、
「どうなるんでしょう。大丈夫かしら?」
 と傍へよって来た千鶴子や真紀子たちは、久慈や塩野を気遣う風に云って横から覗いた。
「大丈夫だとも。どっちもカルトを持ってるんだもの。」
 矢代がこう云っているとき、塩野だけはもう赦されて包囲の外へ出されていた。彼はまだ残っている久慈を見るとまた警官の中へ割り込んでいって、暫く久慈のことを弁明していた様子だったが、間もなく二人は無事揃って外へ出て来た。
「やア、ひどい目に会った。」
 塩野は鼻だけ延び出るような好人物の笑いを立てながら、頭をかきかき矢代たちの方へ近よって来ると、
「とうとうやった。」
 と云ってはまたぼんやりと後ろを見た。
「どうだ。痛むのか。」
 矢代は久慈の抑えている鼻のハンカチを見て訊ねたが、
「いや、何んだか分らん。」
 と云って、久慈はひとり不機嫌そうにトリオンフの椅子の方へ先きに立って歩いた。
 道路の両側に遠く散ってしまった人波は、降り込んで来た雨にみなどこかへ姿を消して見えなくなった。警官の包囲の中では、検束されたものがそれぞれ引き立てられ空虚になったが、後に残った銃剣の警官部隊だけ、血のところどころに流れている雨の中に塊ったまま動かなかった。
「いや、どうも、殴られた殴られた。痛いやまだ。」
 塩野は椅子に落ちついてからも剽軽に頭の横を押してみた。
「しかし、君はなかなか豪いよ。あんなときでもシャッタを切っていたからね。」
 と矢代は事実塩野の勇敢さに感服して云った。
「一ちょらの写真機壊されそうになったが、このときだと思って撮ったんだよ。何が撮れてるか今夜は見ものだぞ。まったく偶然に挟みうちに会わされたんだからな。逃げようにも逃げられないんだ。しかし、あの鉄甲には感心したね。ぴたぴたっと締めよって来た鮮かさは見上げたものだよ。動けないんだ。」
 思い出すと蘇って来るらしい興奮に塩野の顔は赤く染まり、口から泡が飛び出した。
「左翼に一人強い人がいたわ。無茶苦茶に暴れてるの。」
 真紀子のそう云うのに塩野は、
「うむ、いたいた。」
 と頷いた。
「でも、真っ先に飛び出ていった女の人ね。あの方にもあたしびっくりしたわ。あんな人やはり日本にいませんわね。あたし、見ていてはらはらした。」
 千鶴子はそのときもそうして見ていたらしく両手を胸の上に縮め、表情
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