て下さい。何に、これは小さな病気だ。」
 こう紳士は云って坂下のロンパンの森の中から噴きのぼっている噴水を眺めた。日本は健康でいいね、と歎息した紳士の言葉は、跳り出て来た若者を歎称する老人の声のように矢代には聞え、ふと照れ気味で自分の国を振り返ってみるのだった。なるほど、立法はあってもその原型を噛み納めると、たちまち情意を立法としてしまい、争いあれば云うだけ云って自然な一つの言葉で鎮まり返り、しかも、季節ごとに燃え上っては、また後から後からと若芽を噴き出してやまぬ、もやし[#「もやし」に傍点]のような瑞瑞しさが日本だった。
 これぐらい健康で新鮮な国もまたとあるまい。――
 しかし、これを云うと久慈のように怒り出す日本人も今は充満しているのだと矢代は思った。そのくせ外国人が云い出してくれると、眼を細めて人一倍に喜ぶ謙虚さも持っていた。けれども、何をどんなに云おうとも、われわれは健康なことに間違いはない。この健康さを信頼せずして他の何に信頼して良いだろうと矢代はこのときある強い思いに打たれずにはおれなかった。「ただもっと欲しいのは自然科学だ、これさえあれば――これは欲しい。」と彼は思った。
 彼は道路から千鶴子たちのいる方を眺めてみると、雛壇の群衆の中に沈んで小さく見える千鶴子も、こちらを見て軽く笑い片手を上げた。矢代も一寸手で合図をした。彼はもうこれならこのまま明旦二人が別れて行こうとも絶対に大丈夫だと思った。それは確信に近い感じで、むしろ、また会うときを想像する喜びの方が大きいほど、生き生きとした信頼の心からだった。
「君、あそこに隠れている警官隊ね。」
 と塩野は建物の蔭の小路に固まっているパリ市直属の鉄甲の警官隊を指差して云った。「あれは軍隊から優秀な兵士ばかり選抜して来た警官隊なんだよ。あれは一番強くって公平で勇敢なんだ。あれを撮ろう。」
 塩野と久慈が広い道路を横切っていって半ばごろまで渡り切ったとき、突然矢代の後ろの方から、
「あれだッ。」
 と叫んだものがあった。矢代はその方を向くと、ソフトを冠った紳士がステッキで坂下のロンパンの方を差していた。ロンパンの森の方から赤旗を首に立てた一台の自動車が馳けて来た。カフェーの一角が急に衝撃を受けて動き停ったと思うと、まだマルセエーズの合唱に揺れているそちこちの群衆の上を、ひと薙ぎその衝撃が薙ぎ通してから、次第にざわざわと揺れ出した。
 それは丁度ぼッと燃え上るような早さで、道路の両側の群衆の上に感応していくと、矢代の前後左右から次ぎ次ぎに、「あれだッ。」とか、「来たぞ。」というような声が漲り起って来たが、そのうちに首に銀狐を巻いた紺色の盛装した若い貴婦人が、ただ一人前方の群衆の中から飛び出て来て、そして、近づいて来た自動車の方へ真直ぐに馳けつけた。と見る間に、一時にどっと両側から真白なカラアの高い群衆が道路のその一点へ向い、波の打ち合うような速度で雪崩れのぼった。警官隊はマントを振り立てて群衆をとめようと焦っても忽ち人波に押し揉まれた。
 矢代は傍の篠懸の街路樹を楯にとって動かなかった。彼は久慈の方を見ていると、塩野と久慈は、打ち上がって来る高いカラアの潮に奔弄されたような様子で、周章てて後へ戻ろうとして引き返して来た。しかし、そのときはもう、後からも同様の群衆の雪崩れが襲って来ていた。二人は横向きに傾きかかって沈んだり浮いたりした。それでも塩野は動揺する中でまだカメラのシャッタを切っているらしかった。
 赤旗を立てた先頭の自動車の後から、二台三台と同様の車が陸続とくり込んで来た。恐らくどれもナシオンへの行進をすませて崩れて来たものにちがいなかったが、どの車も坂を進もうにも進まれず、みな道路の中央で停ってしまった。すると、群衆の真先にいた盛装した銀狐の婦人が拳をふり上げ、自動車から降りて来た左翼の若者たちの群中へただ一人で跳り込んだ。つづいてその後から、紳士や淑女ばかりの一団の群衆が襲いかかった。踏み台に二三の男の飛び上る姿がちらっと見えると、またたく間に引き摺り降ろされて群衆の中へ沈んだ。踏む、蹴る、殴る――そこの一点の得も云われぬ綺羅びやかな特種な乱れの重なった人波の中で、じっと動かぬエナメル色の黒黒と光った自動車の窓ガラスが、見る間に血で真っ赤に染って来た。
 あ奴が怪しいと思うと、その者が右翼であろうと左翼であろうと、もう群衆には見境いがつかなかった。「そら、あれだ。」と一人が云うとどっとまたその方へ襲いかかる。あちらへ揺れこちらへ爆けしている中へ、好んでそこへ飛び込んで来る左翼の群れの数もだんだんに増して来た。矢代の方から久慈の姿はよく見えなかったが、殴りつけられ横ざまになりつつも、まだシャッタを切っている塩野の眼鏡だけ、ときどき青く飛び上るように光った。
 矢
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