間を信用するという心の方が、もっと通用するよ。その方が大切だ。」
とこう矢代は久慈に定めつけてみたいのである。しかし、こんなことも今は無用の返答だと思い止まった。そして、
「君はいつごろ日本へ帰るのだ。」と彼は訊ねた。
「さア、そ奴はまだ考えていないね。しかし、まア、僕ぐらいはここで沈没してみるのも、良かろうと思っているんだ。」
久慈は切り裂いた鮭の中から小骨を抜きとりながら、
「これ日本のかもしれないぜ。今日のは馬鹿に美味いや。千鶴子さん、鮭をフランスへ入れるのに手伝ったって云ってたが、こ奴かな。」
と云って矢代を見て笑った。そう云えば、このあたり一帯のカフェーにあるコーヒー茶碗や食器などは、皆どこのも日本製ばかりだと聞いたことも矢代は思い出され、よくもあの地球の端からここまで満ちて来たものだと、街の拡がりを今さらのように眺めてみるのだった。
真紀子が来てから少し遅れて千鶴子が来た。千鶴子は、ほッと洩れる息を押し込めたような気の張った快活さで、
「明日帰るんだと思うと何んだかそわそわするのよ。そのくせ何もすることないの。」
と云って腰を降ろそうとした。久慈はすぐこれから行進のある通りまで車で行こうと云って、自動車を呼びとめに立った。四人は気忙しい思いのまま車に乗った。
ナシオンの近くの通りまで来かかったとき、早くも見物の群衆で車は動かなくなった。五列ずつほど腕を組み合せて行進して来る隊伍は、所属団体に随ってそれぞれ幟の色を違えていたが、中でも赤や白が一番に多かった。それも労働団体ばかりとは限らず、左翼の政府を支持している文化団体の尽くが混っているといっても良いほどだった。中には自分の子供を肩に乗せて歩いて来るものもあり、少年も少からず混っていた。
「あら、ジイドの写真まで出て来たわ。」
と真紀子は云って笑った。見物の群衆は十重二十重に通りを埋めているので、矢代たちのいる外側からよく行進が見えなかったが、染屋の晒布のような無数の幟の進んで来る中に混った出し物には、工夫をこらしたものも多かった。
特にそれらの隊伍のどこが面白いのか分らなかったが、街路樹という街路樹の枝葉の中から、鈴なりの果物のように群がり繋って下を覗いている見物の顔も街を埋めた群衆も、どういうものか固唾を呑んだように物も云わず、何かの予想に緊張している無気味な空気があたりの街に漂っていた。矢代は、葬列か凱歌かしれぬこんな光景が暫く眼の前を通過しているのを見ている間に、何ぜともなく久慈を突っつきたくなって来たが、それもじっと胸もとで耐えた。
人の肩越しで行進を見られぬ見物の女たちは、ハンドバッグから鏡を出してそれぞれ後ろを向き、鏡面に行進のさまを映し出して眺めていた。
千鶴子や真紀子もそれに倣い鏡を空にかざした。久慈と矢代は爪立ち疲れてふと顔を見合すことがあったが、ぎりぎりとせっぱ詰った云われぬ冷たい表情ですぐ視線を反らせた。その度びに、どちらも、「ふん。」と一瞬相手をせせら笑うような唇の動きを感じ、何か一言いえば生涯の破れになるかと思われる悪寒が、白白しく二人を黙らせつづけるのだった。
そのうち高い建物の上の方から拡声器の革命歌が響きわたって来ると、行進の歩調が揃って来た。しかし、またそれがすぐ国歌に変ってマルセエーズが放じられた。見ている群衆はどちらの歌が空に響きわたっても同じで、誰も声を立てず、すでにこのような訓練が行きとどいた後のように静かだった。
「何か起るのかしら、見ている人、嬉しそうでもないのね。」
と真紀子は不安な顔で久慈に訊ねた。
進行して来る団体の幟が中核をなす赤旗ばかりになって来ると、眼の光りも異様な殺気を帯び、腕組む粒揃いの体の間から勝ち誇った巌乗な睥睨が滲み出て来た。みな誰も紺の背広にネクタイを垂していたから、一見、パリ祭をぶち壊した群れのようには見えなかったが、文化団体とは違い、緊張した弾力が見るから観衆を押し動かして迫った。幟の中にもここのは明らさまにスターリンやレエニン、それからマルクスなどという本家の似顔絵ばかりを押し立てて、もうフランスという国情の匂いなど少しもなかった。
矢代は見ていて、この行列のさまを翻訳して各国へ報らせれば、分り通じるところは、この国情の失われ取り払われた個所ばかりだと思った。こんなに国情のない部分ばかりが他国に通じ、その国の大部分を形づくっている国情という伝統が通じないとすれば、――矢代は、その次ぎに起って来ることは凡そ想像することが出来た。
「これは困る。こうなっちゃ。」と矢代も思わず中田のように云って、ぶらぶら俯向き加減に人垣の後の方をひとりほっつき廻りながら、――もし生きるという生を構成している国情の大部のものが通じ合わぬなら、世の中の秩序を保つための政治は、ただ僅か
前へ
次へ
全293ページ中124ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング